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後藤茂夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

後藤 茂夫(ごとう しげお、1950年[1] (昭和25年)[2][3][4][5][6]1月24日[7] - )は、栃木県芳賀郡益子町益子焼の陶芸家である[2][1][8]

窯元の名は「獅子吼窯[5][8][9](ししく[10][11]がま)」。

益子で登り窯を焚き、飴釉や白釉、炭化や塩釉など、様々な手掛けた陶芸技法を手掛けた陶芸家である[1][3][5][9]

経歴[編集]

1950年[1] (昭和25年)[2][3][4][5][6]1月24日[7]栃木県那須郡那須町に生まれる[2][1][3][4][5]

栃木県立宇都宮工業高等学校[2][1][3][4][5]に入学するが、すぐに「間違って入学してしまった」と気が付いた。実習では部品をうっかり壊してしまうなど器用で無く、そもそも機械に興味が無かった。当然、授業も面白くなかった[3]

そんな時、下野新聞の「須恵の丘」という記事を読んで、益子焼と「益子」を知った[3]

高校一年生の頃、学校の休みを使って、宇都宮市から益子町まで自転車で行った。益子の窯元を見て回った。陶土の匂いも嗅いだ。道路を工事したばかりの道に陶器の破片が敷き詰めてあった。後藤はとても感動した[3]。この日から生活が成り立つのか全くわからなかったが、「焼き物屋」になることを決めた[3]

宇都宮工業高校を卒業してから1年後の1969年[1] (昭和44年)、益子にある「栃木県窯業指導所」(現在の栃木県産業技術センター 窯業技術支援センター)に第1期伝習生として入所した[2][1][3][12]。1年後に伝習所を卒業後、当時益子にいた陶芸家の安田猛[注釈 1]の下で1年間修業した[2][1][3][4][5]

その後、三村陶苑の好意で三村北土窯の窯を借りたりするなど[2][5]、1年間くらいぶらぶらと、益子のあちこちの窯元を手伝いながら、展覧会などを鑑賞し、様々な陶芸家の仕事を良く観た[5]。この時期の後藤を三村陶苑で見た後輩陶芸家は、轆轤を挽く集中した静かな佇まいの後藤が後々も目に焼き付いていたという[5]

そして1972年[1][5][6](昭和47年)[2][3][4]に陶歴3年で[5]窯を築き独立した[2][1][3][4][5][6]

3畳の居間と土間だけの小屋と登り窯。小さな窯であり貧しくもあったが、それでも嬉しかった[3]。十分やっていけると思っていた。しかし実際には何も出来なかった。窯を焚いても思うような作品は出来なかったし、戸惑いながらも必死に作陶活動に勤しんだ[3]

初めの頃は飴釉が好評だった[3]。白釉の作品も作陶した[2]。その内に塩釉に挑むようになっていった[2][1][3][4][5]。炭化の作品も手掛けた[12]。窯から作品を出した時、登り窯が持つ無原則性が生み出す面白さを楽しむようになった[1][3]。そして品格の高い洗練された形を作るべく「形の追求」が重要な課題になっていった[5]

そして自分の窯を「獅子吼窯[8][9](ししくがま)」と名付けた。「獅子吼」を文字通り解釈すれば「百獣の王である獅子が吼える様」となるが、本来の意味として、仏教用語で「仏の説法」という意味と、「真理や正道を説く」という意味を持つ語である[10][11]。陶芸も真理探究の1つの道であり、正しい道を求める僧侶のように、陶芸にその本道を求めた後藤は、自負と自戒を込めてその名を付けた[5]

後年、同じく益子焼の陶芸家となった長男の竜太と共に[17]、「獅子吼窯」でギャラリー兼陶器販売を営み、少人数対応の陶芸教室を開いたり[8]、陶芸教室の講師を担当したこともあった[18]

家族[編集]

長男に、栃木県窯業指導所(現・栃木県産業技術支援センター 窯業技術支援センター)を修了後、島岡達三に師事し、「島岡達三の再晩年の愛弟子」と謳われた後藤竜太がいる[19][20][21][22][23][17][24][25]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 後に英国へ行き[5]、現在は中国景徳鎮と行き来しながら作陶活動をしている[13][14][15][16]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 益子の陶工,無尽蔵 1980, p. 35.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 益子の陶工たち,小寺平吉 1980, p. 175-176.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 陶源境ましこ,下野新聞社 1984, p. 30-31.
  4. ^ a b c d e f g h 陶源境ましこ,下野新聞社 1984, p. 134.
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q とちぎの陶芸・益子,下野新聞社 1999, p. 76-77.
  6. ^ a b c d とちぎの陶芸・益子,下野新聞社 1999, p. 219.
  7. ^ a b 益子の陶芸家,近藤京嗣 1989, p. 75.
  8. ^ a b c d 獅子吼窯 後藤茂夫 / 後藤竜太”. 益子町観光協会 (2014年). 2024年5月22日閲覧。
  9. ^ a b c 益子焼つかもと【公式】 [@mashiko.tsukamoto] (2021年4月30日). "……今回は後藤茂夫さんの作品写真をご紹介致します………". Instagramより2024年5月23日閲覧
  10. ^ a b 獅子吼(シシク)とは? 意味や使い方 - コトバンク
  11. ^ a b 師子吼・獅子吼|空飛ぶお不動さま。飛不動尊 龍光山正宝院のお不動様
  12. ^ a b 「下野新聞」2002年(平成14年)3月17日付 9面「炭化シリーズ新作を発表へ」「後藤茂夫さん個展」
  13. ^ Vol.27 中国の金沢、景徳鎮で愉しむ工芸文化の香り|Rocky’s report from Shanghai”. 花椿 HANATSUBAKI|資生堂 (2022年9月26日). 2024年2月19日閲覧。
  14. ^ 『陶説』(448)「首都圏陶展見てある記」「安田 猛 作陶展」福田旻 P70 - 73 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2024年2月19日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスで閲覧。
  15. ^ 日本の陶芸家、景徳鎮にアトリエを作って10年”. 東方網日本語版 (2015年1月26日). 2024年2月19日閲覧。
  16. ^ 景德鎮上的日本教父 - YouTube
  17. ^ a b 益子焼つかもと【公式】 [@mashiko.tsukamoto] (2021年5月1日). "……今回は後藤竜太さんの作品写真をご紹介致します………". Instagramより2024年5月23日閲覧
  18. ^ 教室案内|柏市の藤心陶芸センター:1997年(平成9年)から2001年(平成13年)まで担当
  19. ^ 陶源境ましこ,下野新聞社 1984, p. 31.
  20. ^ 若き陶芸家の誕生・島岡達三最晩年の愛弟子・後藤竜太”. 日々・from an architect (2003年9月5日). 2024年5月23日閲覧。
  21. ^ 島岡達三門下生展の事”. Noriyasu Tsuchiya (2013年11月2日). 2024年5月23日閲覧。
  22. ^ 道の駅ましこ企画展示 師匠のことば 島岡達三と弟子達”. 道の駅ましこ 公式サイト (2021年1月). 2024年5月23日閲覧。
  23. ^ 後藤竜太|益子の土を使った器作り”. 和食器の通販 トリノワ. 2024年5月24日閲覧。
  24. ^ 後藤竜太 Goto Ryuta (@goto_ryuta) - Instagram
  25. ^ 後藤竜太 Goto Ryuta [@goto_ryuta] (2024年5月3日). "……#ししくがまコーナー………". Instagramより2024年5月23日閲覧

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

2014年(平成26年)時点の情報のため、現在はギャラリーや販売、陶芸教室は行われていないため注意。