(Go: >> BACK << -|- >> HOME <<)

コンテンツにスキップ

「武富済」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
一粒 (会話 | 投稿記録)
m →‎略歴: 微修正
編集の要約なし
 
(22人の利用者による、間の30版が非表示)
1行目: 1行目:
[[ファイル:Wataru taketomi.jpg|thumb|200px|武富済の肖像写真]]
'''武富 済'''(たけとみ わたる、[[1879年]]([[明治]]12年)[[4月23日]] - [[1937年]]([[昭和]]12年)[[32日]])は、[[日本]]の[[検事]]、[[弁護士]]、[[衆議院議員]]。正しくは'''武富 濟'''。[[男性]]。

'''武富 済'''(たけとみ わたる、[[1879年]]([[明治]]12年)[[4月23日]] - [[1937年]]([[昭和]]12年)[[420日]])は、[[日本]]の[[検察官|検事]]、[[弁護士]]、[[衆議院|衆議院議員]]<ref name="shimindayori">{{Cite journal|和書
|year=2004
|month=9
|title=刈谷人物名鑑(30)
|journal=かりや市民だより
|issue=1870
|pages=p. 12
|publisher=刈谷市
|url=http://www.city.kariya.lg.jp/present/news/simindayori/16.09.15-pdf/p12.pdf
|format=PDF
|accessdate=2010-01-19
}}</ref>([[憲政会]]→[[立憲民政党]])。旧字体では'''武富 濟'''。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[愛知県]][[刈谷市|刈谷町]](現在の刈谷市)出身。[[東京学芸大学附属世田谷小学校|東京府尋常小]]に編入し、[[東京都立日比谷高等学校|府立一中]]、[[第二高等学校 (旧制) |二高]]を経て、1904年[[東京帝国大学]]法科卒業。司法官試補を経て、[[検事]]任官。[[塩野季彦]]、[[小原直]]らと共に[[小林芳郎]]一門。
[[愛知県]][[碧海郡]]刈谷村(現在の[[刈谷市]])出身。[[東京学芸大学附属世田谷小学校|東京府尋常小]]に編入し、[[東京都立日比谷高等学校|府立一中]]<ref>『東京府立第一中学校五十年史』巻末「如蘭会員及現在生徒名簿」([[東京都立日比谷高等学校|東京府立第一中学校]],1929年)参照</ref> 、[[第二高等学校 (旧制) |二高]]を経て、[[1904年]]、[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院学政治学研究・法学部|法科]]卒業。司法官試補を経て、[[検察官|検事]]任官<ref name="shimindayori"/> 。[[塩野季彦]]、[[小原直]]らと共に[[小林芳郎]]一門。


主な経歴として、東京区兼地裁検事、[[大審院]]検事事務取扱。[[シーメンス事件]]、[[帝人事件]]と並び、戦前の三大疑獄とされた[[日糖疑獄]]及び[[内外石油疑獄]]にも、[[1910年]][[大逆事件]]である「[[幸徳事件]]」における[[幸徳秋水]]検挙の功労者。
主な経歴として、東京[[裁判所]][[判所]]検事、[[大審院]]検事事務取扱。[[シーメンス事件]]、[[帝人事件]]と並び、戦前の三大疑獄とされた[[日本製糖汚職事件|日糖疑獄]]及び[[内外石油疑獄]]では、[[小林芳郎]][[東京地方裁判所]]検事局検事正の下で、[[南谷知悌]]、小原直、[[小山松吉]]、[[三浦栄五郎]]らと共家宅捜査や贈収賄者の取調べ担当にあった。特に、後者の内外石油疑獄では、小原と共に事件担当となったが、小林芳郎らの抵抗空しく、[[桂太郎]]総理の鶴の一声で、[[松室致]]検事総長、[[平沼騏一郎]]司法省刑事局長以下、本件捜査を見合せることで終幕した<ref>『小原直回顧録』(小原直1967年) P27、P29</ref>。さらに[[1910年]][[大逆事件]]である「[[幸徳事件]]」における[[幸徳秋水]]検挙の功労者だとされている<ref name="shimindayori"/><ref>『WhoPlus(フー・プラス)』(2005年、[[日外アソシエーツ]])</ref>


[[1912年]]、検事を退職し弁護士となり、東京弁護士会常議員会議長となる<!--[[1916年]]([[大正]]5年)、愛知県から衆議院選挙に立候補したが落選と刈谷「市民だより」にあるがこの年に総選挙はない-->。[[1924年]]に[[立党]]公認で衆議院選挙に立候補、初当選。連続5期務める。立憲民政党総務など歴任。[[1929年]]、[[小選挙区制]]法案に反対し、5時間30分にわたる[[牛戦術#主な実行例|長時間演説]]を行い、副議長に討論を打ち切られた。これは憲政史上最長記録である。
[[1912年]]、検事を退職し弁護士となり、東京弁護士会常議員会議長となる<!--[[1916年]]([[大正]]5年)、愛知県から衆議院選挙に立候補したが落選と刈谷「市民だより」にあるがこの年に総選挙はない-->。[[1924年]]に憲政公認で衆議院選挙に立候補、初当選。連続5期務める。立憲民政党総務など歴任。[[1929年]]、[[小選挙区制]]法案に反対し、[[3月12日]]の衆議院本会議では法案審議を14日に延期する[[動議]]の趣旨説明を行った。武富の趣旨説明は、5時間30分にわたる[[牛タン戦術|長時間演説]]<ref>途中、午後7時から8時5分まで休憩が入ったため、実時間は6時間を超えた。</ref>となった。全国の選挙区を、郡・自治体別に詳細に取り上げ、さらに与党・[[立憲政友会]]、[[院内会派]]新党倶楽部批判を始めたが、[[清瀬一郎]]副議長に討論を打ち切られた。これは憲政史上最長記録である。


同年、[[濱口内閣]]が成立すると初代[[拓務省|拓務]][[参与官]]に就任した<ref name="shimindayori"/><ref>『日本官僚制総合事典 1868-2000』([[東京大学出版会]], 2001年)など参照 </ref>。
==関連項目==

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}

== 関連項目 ==
*[[大逆事件]]([[幸徳事件]])
*[[大逆事件]]([[幸徳事件]])
*[[冤罪]]
*[[冤罪]]
*[[牛タン戦術]]
*[[議事妨害#日本|議事妨害]]

*[[円より子]]
*[[森裕子]]


{{衆議院懲罰委員長}}
==外部リンク==
{{Normdaten}}
*[http://www.city.kariya.lg.jp/present/news/simindayori/16.09.15-pdf/p12.pdf 市民だより 16.9.15 「刈谷人物名鑑」30 武富済] 刈谷市[[広報]]誌


{{Japan-politician-stub}}
{{DEFAULTSORT:たけとみ わたる}}
{{DEFAULTSORT:たけとみ わたる}}
[[Category:日本の弁護士]]
[[Category:日本の弁護士]]
[[Category:日本の検察官]]
[[Category:日本の検察官]]
[[Category:日本国会議員 (1890-1947)]]
[[Category:愛知県選出衆議院議員 (帝国議会)]]
[[Category:大正時代の衆議院議員]]
[[Category:昭和時代戦前の衆議院議員]]
[[Category:在職中に死去した衆議院議員 (帝国議会)]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
[[Category:旧制第二高等学校出身の人物]]
[[Category:東京都立日比谷高等学校出身の人物]]
[[Category:愛知県出身の人物]]
[[Category:1879年生]]
[[Category:1879年生]]
[[Category:1937年没]]
[[Category:1937年没]]
{{people-stub}}

2024年2月9日 (金) 04:44時点における最新版

武富済の肖像写真

武富 済(たけとみ わたる、1879年明治12年)4月23日 - 1937年昭和12年)4月20日)は、日本検事弁護士衆議院議員[1]憲政会立憲民政党)。旧字体では武富 濟

略歴[編集]

愛知県碧海郡刈谷村(現在の刈谷市)出身。東京府尋常小に編入し、府立一中[2]二高を経て、1904年東京帝国大学法科卒業。司法官試補を経て、検事任官[1]塩野季彦小原直らと共に小林芳郎一門。

主な経歴として、東京区裁判所地方裁判所検事、大審院検事事務取扱。シーメンス事件帝人事件と並び、戦前の三大疑獄とされた日糖疑獄及び内外石油疑獄では、小林芳郎東京地方裁判所検事局検事正の下で、南谷知悌、小原直、小山松吉三浦栄五郎らと共に家宅捜査や贈収賄者の取調べ担当にあった。特に、後者の内外石油疑獄では、小原と共に事件担当となったが、小林芳郎らの抵抗も空しく、桂太郎総理の鶴の一声で、松室致検事総長、平沼騏一郎司法省刑事局長以下、本件捜査を見合わせることで終幕した[3]。さらに1910年大逆事件である「幸徳事件」における幸徳秋水検挙の功労者だとされている[1][4]

1912年、検事を退職し弁護士となり、東京弁護士会常議員会議長となる。1924年に憲政会公認で衆議院選挙に立候補、初当選。連続5期務める。立憲民政党総務など歴任。1929年小選挙区制法案に反対し、3月12日の衆議院本会議では法案審議を14日に延期する動議の趣旨説明を行った。武富の趣旨説明は、5時間30分にわたる長時間演説[5]となった。全国の選挙区を、郡・自治体別に詳細に取り上げ、さらに与党・立憲政友会院内会派新党倶楽部批判を始めたが、清瀬一郎副議長に討論を打ち切られた。これは憲政史上最長記録である。

同年、濱口内閣が成立すると初代拓務参与官に就任した[1][6]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 刈谷人物名鑑(30)」(PDF)『かりや市民だより』第1870号、刈谷市、2004年9月、p. 12、2010年1月19日閲覧 
  2. ^ 『東京府立第一中学校五十年史』巻末「如蘭会員及現在生徒名簿」(東京府立第一中学校,1929年)参照
  3. ^ 『小原直回顧録』(小原直、1967年) P27、P29
  4. ^ 『WhoPlus(フー・プラス)』(2005年、日外アソシエーツ
  5. ^ 途中、午後7時から8時5分まで休憩が入ったため、実時間は6時間を超えた。
  6. ^ 『日本官僚制総合事典 1868-2000』(東京大学出版会, 2001年)など参照

関連項目[編集]