「武富済」の版間の差分
m →略歴: 微修正 |
編集の要約なし |
||
(22人の利用者による、間の30版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
[[ファイル:Wataru taketomi.jpg|thumb|200px|武富済の肖像写真]] |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
|year=2004 |
|||
|month=9 |
|||
|title=刈谷人物名鑑(30) |
|||
|journal=かりや市民だより |
|||
|issue=1870 |
|||
|pages=p. 12 |
|||
|publisher=刈谷市 |
|||
⚫ | |||
|format=PDF |
|||
|accessdate=2010-01-19 |
|||
}}</ref>([[憲政会]]→[[立憲民政党]])。旧字体では'''武富 濟'''。 |
|||
== 略歴 == |
== 略歴 == |
||
[[愛知県]][[ |
[[愛知県]][[碧海郡]]刈谷村(現在の[[刈谷市]])出身。[[東京学芸大学附属世田谷小学校|東京府尋常小]]に編入し、[[東京都立日比谷高等学校|府立一中]]<ref>『東京府立第一中学校五十年史』巻末「如蘭会員及現在生徒名簿」([[東京都立日比谷高等学校|東京府立第一中学校]],1929年)参照</ref> 、[[第二高等学校 (旧制) |二高]]を経て、[[1904年]]、[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法科]]卒業。司法官試補を経て、[[検察官|検事]]任官<ref name="shimindayori"/> 。[[塩野季彦]]、[[小原直]]らと共に[[小林芳郎]]一門。 |
||
主な経歴として、東京区兼地裁検事、[[大審院]]検事事務取扱。[[シーメンス事件]]、[[帝人事件]]と並び、戦前の三大疑獄とされた[[日糖疑獄]]及び[[内外石油疑獄]]にも |
主な経歴として、東京[[区裁判所]]兼[[地方裁判所]]検事、[[大審院]]検事事務取扱。[[シーメンス事件]]、[[帝人事件]]と並び、戦前の三大疑獄とされた[[日本製糖汚職事件|日糖疑獄]]及び[[内外石油疑獄]]では、[[小林芳郎]][[東京地方裁判所]]検事局検事正の下で、[[南谷知悌]]、小原直、[[小山松吉]]、[[三浦栄五郎]]らと共に家宅捜査や贈収賄者の取調べ担当にあった。特に、後者の内外石油疑獄では、小原と共に事件担当となったが、小林芳郎らの抵抗も空しく、[[桂太郎]]総理の鶴の一声で、[[松室致]]検事総長、[[平沼騏一郎]]司法省刑事局長以下、本件捜査を見合わせることで終幕した<ref>『小原直回顧録』(小原直、1967年) P27、P29</ref>。さらに[[1910年]][[大逆事件]]である「[[幸徳事件]]」における[[幸徳秋水]]検挙の功労者だとされている<ref name="shimindayori"/><ref>『WhoPlus(フー・プラス)』(2005年、[[日外アソシエーツ]])</ref>。 |
||
[[1912年]]、検事を退職し弁護士となり、東京弁護士会常議員会議長となる |
[[1912年]]、検事を退職し弁護士となり、東京弁護士会常議員会議長となる<!--[[1916年]]([[大正]]5年)、愛知県から衆議院選挙に立候補したが落選と刈谷「市民だより」にあるがこの年に総選挙はない-->。[[1924年]]に憲政会公認で衆議院選挙に立候補、初当選。連続5期務める。立憲民政党総務など歴任。[[1929年]]、[[小選挙区制]]法案に反対し、[[3月12日]]の衆議院本会議では法案審議を14日に延期する[[動議]]の趣旨説明を行った。武富の趣旨説明は、5時間30分にわたる[[牛タン戦術|長時間演説]]<ref>途中、午後7時から8時5分まで休憩が入ったため、実時間は6時間を超えた。</ref>となった。全国の選挙区を、郡・自治体別に詳細に取り上げ、さらに与党・[[立憲政友会]]、[[院内会派]]新党倶楽部批判を始めたが、[[清瀬一郎]]副議長に討論を打ち切られた。これは憲政史上最長記録である。 |
||
同年、[[濱口内閣]]が成立すると初代[[拓務省|拓務]][[参与官]]に就任した<ref name="shimindayori"/><ref>『日本官僚制総合事典 1868-2000』([[東京大学出版会]], 2001年)など参照 </ref>。 |
|||
⚫ | |||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
{{reflist}} |
|||
⚫ | |||
*[[大逆事件]]([[幸徳事件]]) |
*[[大逆事件]]([[幸徳事件]]) |
||
*[[冤罪]] |
*[[冤罪]] |
||
*[[牛タン戦術]] |
|||
*[[議事妨害#日本|議事妨害]] |
|||
*[[円より子]] |
|||
*[[森裕子]] |
|||
{{衆議院懲罰委員長}} |
|||
==外部リンク== |
|||
{{Normdaten}} |
|||
⚫ | |||
{{Japan-politician-stub}} |
|||
{{DEFAULTSORT:たけとみ わたる}} |
{{DEFAULTSORT:たけとみ わたる}} |
||
[[Category:日本の弁護士]] |
[[Category:日本の弁護士]] |
||
[[Category:日本の検察官]] |
[[Category:日本の検察官]] |
||
[[Category: |
[[Category:愛知県選出の衆議院議員 (帝国議会)]] |
||
[[Category:大正時代の衆議院議員]] |
|||
[[Category:昭和時代戦前の衆議院議員]] |
|||
[[Category:在職中に死去した衆議院議員 (帝国議会)]] |
|||
[[Category:東京大学出身の人物]] |
|||
[[Category:旧制第二高等学校出身の人物]] |
|||
[[Category:東京都立日比谷高等学校出身の人物]] |
|||
[[Category:愛知県出身の人物]] |
|||
[[Category:1879年生]] |
[[Category:1879年生]] |
||
[[Category:1937年没]] |
[[Category:1937年没]] |
||
{{people-stub}} |
2024年2月9日 (金) 04:44時点における最新版
武富 済(たけとみ わたる、1879年(明治12年)4月23日 - 1937年(昭和12年)4月20日)は、日本の検事、弁護士、衆議院議員[1](憲政会→立憲民政党)。旧字体では武富 濟。
略歴[編集]
愛知県碧海郡刈谷村(現在の刈谷市)出身。東京府尋常小に編入し、府立一中[2] 、二高を経て、1904年、東京帝国大学法科卒業。司法官試補を経て、検事任官[1] 。塩野季彦、小原直らと共に小林芳郎一門。
主な経歴として、東京区裁判所兼地方裁判所検事、大審院検事事務取扱。シーメンス事件、帝人事件と並び、戦前の三大疑獄とされた日糖疑獄及び内外石油疑獄では、小林芳郎東京地方裁判所検事局検事正の下で、南谷知悌、小原直、小山松吉、三浦栄五郎らと共に家宅捜査や贈収賄者の取調べ担当にあった。特に、後者の内外石油疑獄では、小原と共に事件担当となったが、小林芳郎らの抵抗も空しく、桂太郎総理の鶴の一声で、松室致検事総長、平沼騏一郎司法省刑事局長以下、本件捜査を見合わせることで終幕した[3]。さらに1910年大逆事件である「幸徳事件」における幸徳秋水検挙の功労者だとされている[1][4]。
1912年、検事を退職し弁護士となり、東京弁護士会常議員会議長となる。1924年に憲政会公認で衆議院選挙に立候補、初当選。連続5期務める。立憲民政党総務など歴任。1929年、小選挙区制法案に反対し、3月12日の衆議院本会議では法案審議を14日に延期する動議の趣旨説明を行った。武富の趣旨説明は、5時間30分にわたる長時間演説[5]となった。全国の選挙区を、郡・自治体別に詳細に取り上げ、さらに与党・立憲政友会、院内会派新党倶楽部批判を始めたが、清瀬一郎副議長に討論を打ち切られた。これは憲政史上最長記録である。
同年、濱口内閣が成立すると初代拓務参与官に就任した[1][6]。
脚注[編集]
関連項目[編集]