[ 一 ] ( Adam Smith アダム━ ) イギリスの経済学者、倫理学者。古典派経済学の祖。グラスゴー大学教授・総長。重商主義的保護政策を批判し、自由放任主義の立場にたつ自由主義的経済学を主張し、国富の源泉を労働一般に求め、産業革命の理論的基礎づけを行なった。「国富論」は経済学を初めて科学的に体系づけた古典。ほかに「道徳感情論」などがある。(一七二三‐九〇)
[ 二 ] ( William Smith ウィリアム━ ) イギリスの地質学者、古生物学者。イギリス地質学、層序学の開拓者。一八一五年に「英国地層図」、一六年に「化石と地層」を発表した。(一七六九‐一八三九)
[ 三 ] ( William Robertson Smith ウィリアム=ロバートソン━ ) イギリスの神学者、宗教学者。「旧約聖書」を比較宗教学的に研究。主著に「セム人の宗教」「ユダヤ教会における旧約聖書」など。(一八四六‐九四)
[ 四 ] ( Theobald Smith シアボールド━ ) アメリカの病理学者。ハーバード大学教授。伝染病、寄生虫病における比較病理学、血清学の先駆者。多くの動物の伝染病の病原体およびその媒体を発見した。主著「寄生と疾患」。(一八五九‐一九三四)
[ 五 ] ( Henry John Stephen Smith ヘンリー=ジョン=スティーブン━ ) イギリスの数学者。オックスフォード大学教授。初め幾何学にとりくんでいたが、後、数論を専門に研究。一八五九~六五年「数論に関する研究報告書」にその研究成果が発表された。(一八二六‐八三)
グラスゴー大学教授としてのスミスは,有力な商人たちとの交友や,親友D.ヒュームの経済論文の影響などを通じて,すでに後年の経済的自由主義の基礎をつくっていたといわれるが,《道徳感情論(道徳情操論)The Theory of Moral Sentiments(1759)によって,全ヨーロッパに学問的名声を確立した。それはスミスに,バックルー公の旅行付添教師として大陸に渡る機会を与え,彼は大学を辞任して,1764年1月から2年9ヵ月にわたりフランスとスイスを旅行する。このとき,パリでフランスの重農主義経済学者たち,百科全書派哲学者たちに会い,ジュネーブでボルテールに会ったこと,とくにF.ケネーとの出会いが,スミスの思想的発展を促進した。主著《国富論》(1776)は,この旅行中に書きはじめられたともいわれるが,大部分は帰国後故郷の家にこもって書かれた。それはアメリカ独立宣言と同じ年に出版されたが,スミスが本国による植民地貿易の独占を非難したことは明白であるとしても,アメリカの独立を支持したかどうかは,あとで発見された〈アメリカ問題についての覚書〉をも含めて,論争の的になっている。
モルモン教(正称は末日聖徒イエス・キリスト教会)の開祖。1820年以後啓示を受け,これを《モルモン経Book of Mormon》として出版,同時に教会を組織した(1830)。モルモン教では《モルモン経》を聖書と並ぶ教典とみなす点で,正統的なキリスト教と区別され,そのほか異言や神癒を信ずる。教会は急速に発展したが,その特異な教義と慣習のゆえに反感を買い,スミスは暴徒に襲われて死んだ。しかし,教会は後継者B.ヤングの指導により大いに成長,ソルト・レーク・シティを建設しユタ州設立に及んだ。 執筆者:小倉 義明
[生]1805.12.23. バーモント,シェアロン [没]1844.6.27. イリノイ,カーセッジ ジョゼフ・スミス。アメリカ合衆国のモルモン教教祖。自伝的著作 The Book of Mormon(1830)の出版直後,1830年4月6日古代キリスト教の復活の名のもとに末日聖徒イエス・キリスト教会 Church of Jesus Christ of Latter Day Saintsを結成。宗徒は漸次増加し,のちの遍歴にも彼の個人的魅力と啓示により,よく団結した。教義は,天に複数の神がいること,人の神となれる可能性の認容,ユダヤ教とキリスト教神秘主義の混ざった「完全な生き方」による永遠の繁栄の獲得などを説く。悪名高き多妻についての啓示は自伝に示されておらず,彼の死後 8年目に公表されたが,公式に知られているエンマ・ヘイルほか 50人の妻と結婚していたという証拠がある。反対派に獄中で射殺されたが,彼の死後,モルモン教は多妻に反対する彼の 4人の息子の一派と,ブリガム・ヤングに率いられ,グレートソルトレークに落ち着く一派とに分裂する。著書『キリスト教会の統制のための掟』A Book of Commandments for the Government of the Church of Christ(1833),『末日聖徒教会の教義と聖約』Doctrine and Covenants of the Church Latter Day Saints(1835)がある。
スミス Smith, Ian
[生]1919.4.8. ローデシア,セルクウェ [没]2007.11.20. 南アフリカ共和国,ケープタウン イアン・スミス。ローデシア(現ジンバブエ)の政治家。フルネーム Ian Douglas Smith。スコットランドから移住した農民の子。南アフリカ連邦のローズ大学卒業。1948年野党の自由党からイギリス自治植民地の南ローデシア立法院議員となり,1961年白人優越を提唱するローデシア戦線を結成した。1964年4月ローデシア戦線政府の首相に就任以来,イギリスに対し白人支配下での独立を要求,1965年11月に南ローデシアの一方的独立宣言を行ない,1970年3月には共和国移行を宣言した。しかし 1977年9月,穏健派黒人勢力と「国内解決」をはかる方向に政策を転じ,1978年3月ソールズベリー協定に調印。1979年6月1日白人と黒人の連合政府ジンバブエ・ローデシアの誕生とともに,アベル・T.ムゾレワ内閣の一閣僚となった。1980年2月完全独立を目指した総選挙でジンバブエ・アフリカ民族同盟=愛国戦線 ZANU-PFが第一党となり,黒人多数支配のジンバブエ共和国として独立すると,事実上政界での影響力を失った。1987年まで国会議員を務めた。(→ローデシア問題)
スミス Smith, Maggie
[生]1934.12.28. イルフォード マギー・スミス。イギリスの舞台・映画女優。フルネーム Dame Margaret Natalie Smith。オックスフォード・プレーハウスの演劇学校で演技を学び,1952年からオックスフォード,1955年からロンドンでレビューに出演。1956年ブロードウェーのレビューに出演して注目され,ロンドンのレビュー "Share My Lettuce"(1957~58)の主役に抜擢された。1958年 "Nowhere to Go"で映画デビュー。その後ロンドンのオールド・ビック劇場の常連キャストを経て,1963年ナショナル・シアターに加入した。1964年の舞台『オセロ』Othelloでローレンス・オリビエ演じるオセロの妻デズデモーナに扮し,1965年に映画化されたときにも同じ役を演じた。『ミス・ブロディの青春』The Prime of Miss Jean Brodie(1969)でアカデミー賞主演女優賞に輝き,国際的名声を獲得。1970年代に入るとナショナル・シアターを退団。その後はおもに映画界で活躍を続け,『カリフォルニア・スイート』California Suite(1978)でアカデミー賞助演女優賞を受賞した。1990年デイムの称号を授与された。
スミス Smith, John
[生]1580頃.リンカーンシャー,ウィロビー [没]1631.6. ロンドン ジョン・スミス。イギリスの軍人,探検家,作家。バージニアのジェームズタウン植民地の建設者の一人。1604年頃ハンガリーで兵士としてトルコ軍と戦う。1607年チェサピーク湾に 3隻の船を進めて,ジェームズタウン植民地の建設期に優れた指導力を発揮。自伝によれば,一度アメリカインディアンに捕われたが,ジョン・ロルフと結婚した族長の娘ポカホンタスの願いで助命になったという。チェサピーク湾一帯を探検したのち,1609年イギリスに帰国。1614年にはニューイングランドを探検し,毛皮などの貴重品を本国に持ち帰り,ニューイングランドへの植民を促進した。その後新世界に関する著作に専念。著書"A Description of New England"(1616),"The True Travels,Adventures,and Observations of Captaine John Smith in Europe,Asia,Africa and America"(1630)。
スミス Smith, Adam
[生]1723.6.5. 〈洗礼〉スコットランド,カーコーディ [没]1790.7.17. エディンバラ アダム・スミス。イギリスの経済学者,哲学者。ことに古典派経済学の祖として著名。グラスゴー大学,オックスフォード大学に学んだのち,母校グラスゴー大学で道徳哲学講座を 13年間担当。その後バックルー公の家庭教師としておもにフランスに滞在(約 3年)し,重農主義者と交わる。帰国後は公の年金によって生活し,この間に有名な『諸国民の富の性質と原因に関する研究』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations(1776。→国富論)を 10年の歳月をかけ完成。この著作によって彼は後年「経済学の父」と呼ばれるにいたり,今日の近代経済学,マルクス経済学は等しくこのスミスの『国富論』から出発している。『国富論』は経済学を初めて理論,歴史,政策にまたがる体系的科学とし,その重商主義批判は 19世紀以降イギリスの自由通商政策の支柱となった。晩年グラスゴー大学総長となり,終生独身であった。他に『道徳感情論』The Theory of Moral Sentiments(1759)がある。
スミス Smith, Jimmy
[生]1928.12.8. ペンシルバニア,ノリスタウン [没]2005.2.8. アリゾナ,スコッツデール ジミー・スミス。アメリカ合衆国のミュージシャン。本名 James Oscar Smith。ソウル・ジャズ・スタイルを確立し,電子オルガンをジャズの主要楽器の一つにした。独自の演奏スタイルで軽やかに旋律を弾いた。両親にピアノを教わり,1948~50年フィラデルフィアの音楽学校で学び,その後ドン・ガードナーのリズム・アンド・ブルースのグループに加わった。オルガニストのワイルド・B.デービスに触発されてハモンド・オルガンを習い,1955年にトリオを結成して人気を博した。一連のヒット・アルバムによってレコード会社のブルー・ノートを大手ジャズ・レーベルへと押し上げた。代表曲は,オリバー・ネルソンのビッグ・バンドと共演したアルバム『バッシン』Bashin'(1962)の収録曲『ウォーク・オン・ザ・ワイルド・サイド』。ギタリストのウェス・モンゴメリーともアルバムで共演した。
[生]1846.11.8. アバディーン近郊キー [没]1894.3.31. ケンブリッジ ウィリアム・ロバートソン・スミス。イギリス,スコットランドの自由教会派牧師。セム学者,旧約聖書学者,百科事典編集者。旧約聖書の高等批評,聖書問題,ヘブライ語とその文学などについて『ブリタニカ百科事典』に数次寄稿,名声を博したが,その学説のため教会から聖務停止の処分を受けた。1881年6月から『ブリタニカ百科事典』編集者,次いで編集長を務める。主著『ユダヤ教会における旧約聖書』The Old Testament in the Jewish Church(1881),『イスラエルの預言者』The Prophets of Israel(1882),『古代アラビアにおける血縁と結婚』Kinship and Marriage in Early Arabia(1885),『セム族の宗教』Lectures on the Religion of the Semites(1889)。
スミス Smith, Sir Harry, Baronet
[生]1787.6.28. イーリー島 [没]1860.10.12. ロンドン ハリー・スミス(準男爵)。イギリスの軍人。フルネーム Sir Harry George Wakelyn, Baronet Smith。ナポレオン1世に対する半島戦争,アメリカ=イギリス戦争,ワーテルローの会戦など,各地で従軍,転戦したのち,1828年ケープ植民地駐在官となり,1834~35年現地民カフィル人との紛争に活躍。1840年インド駐在となり,1845年からの第1次シク戦争において,アリーウォールの戦い(1846.1.28.)を指揮して勝利した。1847年陸軍中将,准男爵となり,総督として再度ケープ植民地に赴任。翌年オレンジ川流域をイギリス領に併合,これに反対したボーア人を撃破。1852年解任されて帰国。
[生]1930.5.10. ニューヨーク,ホワイトプレーンズ ジョージ・E.スミス。アメリカ合衆国の物理学者。フルネーム George Elwood Smith。ペンシルバニア大学を卒業後,1959年にシカゴ大学で物理学の博士号を取得した。同 1959年,ベル研究所に入り 1986年まで勤めた。2009年,光デジタル技術にかかわる重要な技術を開発した功績により,チャールズ・カオならびにウィラード・ボイルとともにノーベル物理学賞を受賞した。スミスとボイルは,ベル研究所でデジタルカメラの心臓部である電荷結合素子 CCDイメージセンサを開発したことが高く評価された。
スミス Smith, David
[生]1906.3.9. インディアナ,ディケーター [没]1965.5.23. バーモント,ベニントン デービッド・スミス。アメリカ合衆国の彫刻家。フルネーム David Roland Smith。オハイオ州立大学,ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで学ぶ。初め抽象的,超現実的絵画を描いたが,1933年『カイエ・ダール』誌でパブロ・ピカソの金属彫刻を見て感動し,以後 6年間ブルックリンの鉄工所にアトリエをもって制作を続けた。1938年ニューヨークで最初の個展を開き,アメリカ抽象美術家展に出品。ステンレススチールの表面に傷をつけ,それを箱状に組み立てたものを組み合わせた作品を制作し,彫刻の新しい方向を追究した。1960年代,金属の箱を組み合わせた作品『キュービ』により,最も重要なアメリカ現代彫刻家と目される。1965年交通事故で死亡。
[生]1918.12.20. カンザス,ウィチタ [没]1978.10.15. アリゾナ,トゥーソン W.ユージン・スミス。アメリカ合衆国の写真家。フルネーム William Eugene Smith。14歳から写真を始め,『ニューズウィーク』誌のカメラマンを振り出しに,19歳で『ライフ』誌のスタッフとなった。1942年から『ライフ』の従軍写真家として太平洋戦争を取材,1945年5月沖縄戦線を取材中,重傷を負った。1948年フォト・エッセー『田舎の医者』,1951年同『スペインの村』を『ライフ』に発表,報道写真家として国際的に著名となる。1955年『ライフ』を退きフリーランスとなった。1961年以来数度訪日,水俣病を取材した作品を発表した。
スミス Smith, Al
[生]1873.12.30. ニューヨーク [没]1944.10.4. ニューヨーク アル・スミス。アメリカ合衆国の政治家。フルネーム Alfred Emanuel Smith。1903~15年ニューヨーク州議会議員,1913年には同議長。1919~20,1923~28年ニューヨーク州知事を 4期務め,1928年の大統領選挙では民主党大統領候補の指名を受けたが,共和党のハーバート・フーバーに敗れた。しかし大統領選に最初に立候補したカトリック教徒の民主党候補としては,労働者の多い北東部の大都市でめざましく進出して注目された。1932年の「ルーズベルト革命」の以前に 1928年の「アル・スミス革命」があったとさえいわれている。
スミス Smith, A. J. M.
[生]1902.11.8. カナダ,モントリオール [没]1980.11.21. アメリカ合衆国,ミシガン,イーストランシング A.J.M.スミス。カナダの詩人,批評家。フルネーム Arthur James Marshall Smith。マギル大学在学中の 1925年に文芸誌『マギル・フォートナイトリー・レビュー』McGill Fortnightly Reviewを創刊,1920年代カナダ詩復興のリーダーとなった。また "The Book of Canadian Poetry" (1943) に始まる一連のカナダ詩のアンソロジーを編纂した。(→カナダ文学)
[生]1871.8.5. グラフトン [没]1937.1.1. プリムローズ グラフトン・エリオット・スミス。イギリスの解剖学者,人類学者。マンチェスター大学教授。文明のエジプト起源説で知られた。彼は古代エジプトの墳墓の人骨の研究に端を発して,ミイラの製作,巨石建造物,太陽信仰などを特徴とする古代エジプトの文化が,一元的に発生して世界各地に広まり,諸文明のもとになったと考えた。著書『文明の起源』In the Beginning; The Origin of Civilization(1932)は,考古学者 W.ペリーの『日の御子』(1923)とともに極端な伝播主義で知られる(→伝播論)。
スミス Smith, Logan Pearsall
[生]1865.10.18. アメリカ合衆国,ニュージャージー,ミルビル [没]1946.3.2. イギリス,ロンドン ローガン・ピアソール・スミス。アメリカ合衆国生まれのイギリスの評論家,随筆家,英語学者。1913年イギリスに帰化。簡潔な文章に警句,ユーモア,深い英知をこめた彼の随筆は高く評価され,『随想集』Trivia(1902),『続随想集』More Trivia(1921)などにまとめられた。また英語学者として「純粋英語協会」Society for Pure Englishを創設したほか,ミルトン,シェークスピアについての論文もある。ほかに自叙伝『忘れえぬ歳月』The Unforgotten Years(1938)がある。
スミス Smyth, John
[生]1554頃 [没]1612. アムステルダム ジョン・スミス。イギリスのバプテスト派の創始者。スミスは Smithとも表記する。ケンブリッジ大学に学び,イギリス国教会の牧師となったが,1606年離脱。1608年ヘルウィスらと分離派の一団を率いてアムステルダムへ亡命,バプテスト教会を設立。1611年スミスと分かれた同志はイギリスに帰り,「一般バプテスト派」の祖となる。アルミニウス主義(→アルミニウス派)に立ち,のちメノー派に接近。そのため晩年は孤立した。主著『真の祈りの型』A pattern of True Prayer(1605)。
スミス Smith, Sir George Adam
[生]1856.10.19. インド,カルカッタ [没]1942.3.3. イギリス,バラーノ ジョージ・アダム・スミス。スコットランドの牧師,セム学者。旧約聖書の研究家,説教者として知られた。エディンバラに学ぶ。アバディーンで牧会(1882)。グラスゴーのユナイテッド・フリー・チャーチ大学で旧約聖書学教授(1892)。1899年アバディーン大学学長に就任。1916年ナイト爵を受ける。主著『聖地の歴史地理』Historical Geography of the Holy Land(1894),『12人の預言者たち』The Twelve Prophets(2巻,1896~97)。
[生]1792.9.14. メーン,バックフィールド [没]1868.7.28. ニューヨーク,パチョーグ シーバ・スミス。アメリカ合衆国のジャーナリスト,風刺作家,編集者。典型的ヤンキー,ダウニング少佐の筆になると称する一連のユーモラスな時事風刺的手紙で人気を博した。代表作は『ダウニングビルのジャック・ダウニング少佐の生活と著作』The Life and Writings of Major Jack Downing of Downingville(1833)。
[生]1838.10.23. メリーランド,ボルティモア [没]1915.4.7. ニューヨーク フランシス・ホプキンソン・スミス。アメリカ合衆国の小説家。初め技師だったが,50歳を過ぎてからたまたま書いたユーモラスな小説『カーターズビルのカーター大佐』Colonel Carter of Cartersville(1891)で有名になり,以後次々と作品を発表した。ほかに画集もある。
スミス Smith, Sydney
[生]1771.6.3. エセックス,ウッドフォード [没]1845.2.22. ロンドン シドニー・スミス。イギリスの著述家,聖職者。1802年に雑誌『エディンバラ・レビュー』創刊に参画,同誌上に健筆をふるう。主著はカトリック解放を弁護した『ピーター・プリムリー書簡』Letters of Peter Plymley(1807)。
没年:1916.2.18(1916.2.18)
生年:1852
明治期に来日したお雇い外国人。イギリス人教師。エジンバラ大学を卒業し,会社勤務をしたのち,明治7(1874)年9月に開成学校機械学教師として来日し,同校が東大に昇格後も引き続き機械学,数学などを教え,11年に帰国した。日本を去るとき,《Valedictory Address to the Engineering Students of Tokio^ Dai Gaku》と題する演説をした。ダイアーの経営する工部大学校(東大)の教育方法に対して批判的であって,のちにこの問題についてダイヴァーズと論争した。帰国後,バーミンガム大学の前身校メーソン・カレッジで機械学を教え,同大学の名誉教授となった。
…個々人の私益追求のエネルギーが結果的に社会全体の利益増進に役立つことを示すのに,アダム・スミスは著書《国富論》第4編第2章,および《道徳感情論》第1編第4部において,〈見えざる手に導かれてled by an invisible hand〉という表現を用いた。19世紀になると〈見えざる神のみ手〉と誇張して,独占利潤を含めた無法な私益追求までも正当化しようとする傾向を生じたが,スミスの本意では,私益追求に伴う弊害が市場での主体間競争によって除去され浄化されることを大前提としているのである。…
…〈末日聖徒イエス・キリスト教会Church of Jesus Christ of Latter‐Day Saints〉の俗称。1830年スミスJoseph Smith(1805‐44)によって創立された。スミスが発見したとされるアメリカ大陸の古代住民に神から与えられた《モルモン経》を旧新約聖書とならぶ経典として重要視し,シオン(神の国)がアメリカ大陸に樹立されることを信じる。…
【モルモン教】より
…〈末日聖徒イエス・キリスト教会Church of Jesus Christ of Latter‐Day Saints〉の俗称。1830年スミスJoseph Smith(1805‐44)によって創立された。スミスが発見したとされるアメリカ大陸の古代住民に神から与えられた《モルモン経》を旧新約聖書とならぶ経典として重要視し,シオン(神の国)がアメリカ大陸に樹立されることを信じる。…