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「1999年の広島東洋カープ」の版間の差分

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== 概要 ==
[[1992年]]の引退後、[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]で[[城島健司]]を育て[[フジテレビジョン|フジテレビ]]や地元の[[テレビ新広島]]で野球解説者を務めたのち、[[1998年]]から二軍監督となっていた達川光男が[[三村敏之]]前監督の勇退を受けてこの年から就任。達川新監督は黄金時代復活のため、自らの登録名を「達川晃豊」(読みはそのまま)に変更。また、チーム再建の切り札としてかつての同僚だった[[大下剛史]]を一軍ヘッドに、OBの[[西田真二]]を打撃コーチに、前年引退の[[大野豊 (野球)|大野豊]]を投手コーチに、同じく同僚の[[正田耕三]]を内野守備走塁コーチに据えるなどコーチ陣を一新してキャンプイン。しかし、三村監督時代のキャンプが緩かったのに対し、大下ヘッドコーチの主導で行ったキャンプがあまりにも地獄過ぎたことから主力選手の故障者が続出。それでも開幕からの2か月は借金1で健闘したものの、6月後半からほとんど勝てなくなり13連敗で一気に最下位に落ちると、8月も8勝17敗で苦戦。同じく主力選手の故障や不振、離脱が相次いだ[[阪神タイガース|阪神]]の12連敗に助けられ5位に上がるのがやっとで、優勝の[[中日ドラゴンズ|中日]]に24ゲーム差を付けられて達川監督の1年目は5位で終わった。チーム防御率は4.01から4.78と悪化し、3年連続でチーム防御率リーグ最下位だった。シーズン終了後、大下ヘッドコーチ(シーズン途中で休養)と大野投手コーチと正田守備走塁コーチは成績不振の責任を取り辞任した。シーズン終了後、4番の[[江藤智 (野球)|江藤智]]が[[読売ジャイアンツ|巨人]]へFA移籍し、チームは転換期を迎える。
 
== チーム成績 ==