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極洋丸

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極洋丸(きょくようまる[1][2] 、Kyokuyo maru[3])は、日本の極洋捕鯨(現・極洋)が運航した捕鯨船(捕鯨母船)およびタンカー1938年昭和13年)に竣工し1943年(昭和18年)に座礁全損した初代と、1956年(昭和31年)に竣工し1967年(昭和42年)に廃船された2代目がある。

極洋丸 (初代)

極洋丸
 
竣工時の極洋丸(1938年)
基本情報
船種 捕鯨母船、タンカー
クラス 第二日新丸型捕鯨母船
船籍   大日本帝国
所有者 極洋捕鯨(現・極洋
建造所 川崎造船所[1][3][4]
母港 東京港[1]
姉妹船 第二日新丸[3][1]
建造費 850万円[1]
信号符字 JQFM[1]→JQFE[5]
経歴
起工 1938年(昭和13年)1月7日[2]
進水 1938年(昭和13年)6月28日[1][2][6]
竣工 1938年(昭和13年)10月5日[2][7]
処女航海 1938年(昭和13年)10月11日[2][3]
最後 1943年(昭和18年)9月19日、台風座礁全損[2][3]
要目
総トン数 1万7,548.83t[1]
1万7,549t[5][8]
載貨重量 2万1,957.66t[1][3]
排水量 3万2,950t(満載)[1]
垂線間長 163.31m[1][3]
型幅 22.56m[1][3]
型深さ 14.86m[1][3]
満載喫水 10.521m[1][3]
主機関 川崎MAN D8Zディーゼルエンジン[1][3]
推進器 1軸[3]
出力 6,019馬力[4]
最大出力 7,624馬力(連続最大)[1][2][3]
最大速力 15.066ノット (27.902 km/h)[3]
航海速力 10.5ノット (19.446 km/h)[1][3]
搭載人員 290名(捕鯨作業員)[1]
乗組員 91名[1]
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極洋丸
基本情報
艦種 一般徴用船[1]
特設運送船(油槽船)[3]
艦歴
就役 1941年(昭和16年)11月17日(徴用)
1943年(昭和18年)9月(海軍籍に編入)[3]
最期 1943年(昭和18年)9月28日台風により全損[3][7]
要目
兵装 不明
装甲 なし
搭載機 なし
徴用に際し変更された要目のみ表記
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建造

スマトラゴム拓殖会社の社長として財を成した山地土佐太郎は、先祖代々「津呂組」という土佐国の鯨組の株主だったこともあり、母船式の大規模な捕鯨を悲願としていた[9]1936年(昭和11年)、山地は高知県室戸の土佐捕鯨で捕鯨船の船長をしていた林田惣太郎を重役に迎え入れ、スマトラゴム拓殖に捕鯨部を設置し、10月25日に遠洋捕鯨の許可を農林大臣に申請した[2]。既に国際的な制限が始まっていたため農林省(現・農林水産省)は承諾を渋ったが、山地は同じ高知県出身の永野修身海軍大将を説得し、燃料輸送や戦時の軍事輸送に利用できることから、海軍の支援を得た[9]1937年(昭和12年)2月6日、「近い将来別途に捕鯨会社を設立して、それに許可を移譲する事」を条件に、許可が交付された[2]。建造のための支出も山本五十六海軍次官に働きかけ、海軍の保証で日本興業銀行の融資を取り付けた[9]

山地は、9月9日にスマトラゴム拓殖捕鯨部を継承した、母船式捕鯨事業・各種漁業・水産加工業を業務とする極洋捕鯨を資本金2,000万円で設立した[2][7]。同月、山地は林兼商店(現・マルハニチロ)の第二日新丸神戸港で公開されたときに甲板を歩き回り、ボートにカール・ツァイス製のレンズを取り付けたアイモ2台を積み込んで第二日新丸を周囲から何度も撮影させた[10]。数日後、山地は第二日新丸を建造した川崎造船所に現れ、同型船を発注した[9]

400tの鯨油製造工場を有する[4]新造捕鯨母船は、1938年(昭和13年)1月7日[2]に起工。1938年(昭和13年)6月28日に極洋丸と命名されて午前6時25分に進水[1]。10月5日に竣工した[2][3]船長には、大阪商船(現・商船三井)の志どにい丸の船長だった野村周平が就いた[4]

極洋丸の建造に合わせて、浅野造船所(後に日本鋼管鶴見造船所)に5隻、播磨造船所(現・ジャパン マリンユナイテッド磯子工場)に4隻のキャッチャーボートが発注され、極洋丸の竣工と前後して順次竣工した[7]。操業したばかりの極洋捕鯨には捕鯨業の実績が無いため、林兼商店傘下の鮎川捕鯨を買収したほか、不足する捕鯨砲の砲手にはノルウェー人も雇用した[11]

南氷洋・北洋捕鯨

極洋丸は竣工から6日後の10月11日に南氷洋捕鯨に向けて出航した[1][3][7]。出航後、極洋丸の船団は山地の郷里である高知県室戸岬町(現・室戸市)に寄港し、捕鯨砲の空砲を一斉に放ったほか、高知港に寄港して船内を市民に開放した[11]

極洋丸の船団は初出漁だったが1,086頭を捕獲して、1939年(昭和14年)4月20日に神戸港に帰国した[1][12][13]。6月4日、林兼商店・日本水産との3社共同出資による第1回北洋捕鯨(太平洋最北部・オホーツク海ベーリング海)でのに出航した[7]。漁閑期には石油タンカーとして運航され[1]、同年には海軍の重油オランダ領東インド(蘭印)のタラカンから佐世保港に輸入した[3]

6月8日、極洋丸に続く捕鯨母船とキャッチャーボート9隻の建造許可が下りたが、戦局の悪化で実現しなかった[7]。10月29日、第2回南氷洋捕鯨に出航。1940年(昭和15年)10月10日、第3回南氷洋捕鯨に神戸港を出航し、1941年(昭和16年)3月29日に帰航した[7]。帰航後、新鋭船だった極洋丸は蘭印ボルネオ島、次いでアメリカに向かい、重油の輸入に従事した[1][14]

徴用

第二次世界大戦太平洋戦争大東亜戦争)開戦直前の11月17日[7]、極洋丸は横須賀鎮守府所属の一般徴用の運送船として、横須賀港を拠点に高雄港と日本列島の間を往復した。12月17日に馬公に寄港し、12月27日に高雄港に到着。同日のうちに出航し、1942年(昭和17年)1月4日に横須賀港に帰港した[1]

その後、人員と軍需品の輸送のために横須賀港とが位置を往復した[15]。1月9日に横須賀港を出航し、佐世保港、馬公を経て1月29日に高雄港に到着。2月6日に高雄を出港し、2月12日に大阪港に入港した。2月16日に大阪港を出航し、呉を経て高雄へ向かった。3月1日に高雄を出港し、4月10日に相生港に入港。4月14日に相生港を出港し、4月16日に西表島鹿川に到着。人員や軍需品を積み下ろし5月3日に出港、5月6日に横須賀に帰港した。5月9日、横須賀港を出航して再び鹿川に向かい、5月17日に横須賀港に帰港した[1]

8月16日に川崎港に帰航し、原油1万4,908キロは共同企業に払下られた[16]。8月28日、サイパン島への人員と物資輸送のために富津岬沖を乾隆丸(乾汽船、4,575t)と共に出航した。9月1日にパラオへ向かう乾隆丸と分離し、9月4日にサイパンに到着した[5]

10月18日には横浜港に入港し、原油1万キロを共同企業会計に払下げ、約9,000キロを陸軍燃料廠の精製に提供した[17]

12月12日に横浜港入港後、19日に横浜を出航[1]し、下津港大阪港六連島を経て、1943年(昭和18年)1月6日に海南島翰林を出航。1月10日に日本軍政下のミリに到着した[18]。1月11日、ミリで給油中に潜水艦の襲撃を受け損傷した[19]。1月19日にミリを出航し、1月22日に昭南港(シンガポール港)に寄港し、1月24日から修復に入り、5月31日時点でも錨泊中だった[18]

6月9日、修理を終え昭南港を出港した極洋丸は、6月12日にサンジャックに寄港し、原油を積載した。6月21日に出航後、馬公、六連島、神戸港を経て、7月8日に四日市港に寄港した。7月10日に四日市を出航した極洋丸は、神戸港、門司港、高雄港、馬公、サンジャックを経て、8月3日に昭南港へ寄港した。その後、8月12日に昭南港を出港し、サンジャック、馬公、六連島、下津を経て、8月16日に奄美大島にいた[20]、9月1日に下津港に入港した[1]

座礁全損

9月に入り、極洋丸は一般徴用船から特設運送船(給油艦)となり、海軍籍に入った[3]。極洋丸は9月12日に下津港を出港し[1]、9月14日[注釈 1]に将校29名と下士官兵301名、工員ほか9名の合計339名[21]と航空機14機、航空機材などの軍需品18tを搭載して佐世保港を出航、五島列島沖で門司港発基隆港行の第197船団(水雷艇「真鶴」ほか5隻)に合流した[2]。9月15日に鹿児島港に寄港し、17日に出港した[1]。9月19日[注釈 2]台風のため名瀬港に退避中、22時40分に座礁の可能性ありと発信し、23時48分に山羊島沖300mの水深2mの海域に座礁した。翌9月20日8時20分時点で機関室が浸水し、発電機が使用不可能となった。人員と物資に被害は無かったが、12時25分に機械室やタンクも浸水し自力浮揚の見込み無く[21]、9月28日[7]に全損となった[1][3][2]。11月24日、大本営政府連絡会議で徴用の補填が決定された[8]

極洋丸 (2代目)

鶴岡丸→極洋丸[22]
基本情報
船種 捕鯨母船、石油タンカー
船籍   日本
所有者 日本郵船(1945年-1948年)
協立汽船(1948年-1955年)
極洋捕鯨(現・極洋、1955年-1967年)
建造所 三菱重工業長崎造船所(鶴岡丸)
飯野重工(現・ジャパン マリンユナイテッド)舞鶴工場(改装)[23]
母港 東京港[23]
姉妹船 3TL型タンカー[22]
船級 NKBV[22]
信号符字 JOPD→JQIM
IMO番号 54708
改名 鶴岡丸(1945年-1955年)
極洋丸(1955年-1967年)
経歴
起工 1944年(昭和19年)12月19日(鶴岡丸)
1955年(昭和30年)2月1日(改装)[22]
進水 1945年(昭和20年)4月7日(鶴岡丸)
竣工 1945年(昭和20年)7月31日(鶴岡丸)
1955年(昭和30年)5月5日(改装)[22]
処女航海 1955年(昭和30年)5月20日[24]
最後 1967年(昭和42年)12月8日売却[25]
要目
トン数 8,332.62t[22]
総トン数 1万1,448.90t[22]
載貨重量 1万5,650Kt[22]
全長 158.14m[22]
型幅 20.40m[22]
型深さ 16.30m[22]
満載喫水 10.15m[22]
主機関 三菱重工業長崎造船所製蒸気タービン 1基[22]
推進器 1軸
定格出力 6,000馬力[22]
最大速力 14.7ノット (27.2 km/h)[22]
搭載人員 263名(事業部員ほか)[22]
乗組員 87名[22]
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建造

戦後、極洋丸を失いキャッチャーボートの大半を失った極洋捕鯨は沿岸捕鯨に甘んじていたが、1946年(昭和21年)には第一京丸と同形船の就役が始まるなど、母船式捕鯨の再開を希望していた。1947年(昭和22年)3月2日に日本水産との共同経営で第十三号輸送艦による小笠原諸島海域での捕鯨を行い、母船式捕鯨を再開した[26]。3月24日、山下汽船(現・商船三井)から旧戦時標準船(3TL型タンカー)[注釈 3]の第五山水丸を購入し、三菱重工業長崎造船所で捕鯨母船への改装工事が始まったが、日本水産と大洋漁業から共同出漁の提案があったため、第五山水丸をタンカーに改装し11月10日に竣工した。同年から1948年(昭和23年)の漁期には、第五山水丸とキャッチャーボート2隻を日本水産と大洋漁業の南氷洋捕鯨船団に提供し[26]、母船式捕鯨の準備を始めた[27]1949年(昭和24年)10月20日、極洋捕鯨は木津川河口で係留されていたばいかる丸(元・東亜海運、5,243トン)を購入し、上構や主機を換装する大改装を実施。1950年(昭和25年)3月9日に完工し、3月12日に小笠原諸島近海でのマッコウクジラ捕鯨(第4次小笠原捕鯨)で運航を開始した[26]

1952年(昭和27年)、サンフランシスコ講和条約締結により北洋捕鯨が可能になった。極洋捕鯨は、ばいかる丸で戦後初の北洋捕鯨を行うこととなり[28]、大洋漁業と日本水産に共同出漁を要請。2社は鯨油価格の低迷で難色を示したが、外交官出身で創業者の山地と同じ高知県生まれの法華津考太副社長(後に極洋社長)が中心となり、4隻のキャッチャーボートのうち各1隻を2社が提供した。7月10日に出航した10年ぶりの北洋捕鯨(戦後第1次北洋捕鯨)[24]は、国内交渉の難航で2ヶ月のみで、捕獲頭数もシロナガス換算(BWU)で175頭だったが、極洋捕鯨に7億円の収益をもたらした。ばいかる丸の船団は、北洋捕鯨で1953年(昭和28年)に358頭、1954年(昭和29年)に528頭を捕獲した[29]

ばいかる丸による北洋捕鯨を行った極洋捕鯨は、1955年(昭和30年)に3TL型タンカーで協立汽船が貨物船として運航していた鶴岡丸を3月3日に購入[24]。極洋丸に改名し、2月1日から[22]飯野重工(現・ジャパン マリンユナイテッド)舞鶴工場で改装を始めた[23][30]。当時飯野重工舞鶴工場は不況でストライキ寸前だったため、工員は活気づき[23]、出漁に合わせるため極洋捕鯨は塩釜工場から貨車鯨肉缶詰を送らせて工員たちを激励した[31]。改装工事は5月5日に完工した[22]

運航

5月20日、極洋丸と第五京丸、第十一文丸(大洋漁業から貸船)からなる船団は横浜港から第4次北洋捕鯨に出航した[24]。北洋捕鯨で2,153頭を捕獲した極洋丸の船団は10月19日に横浜港に帰港し、船団長と船長はミス横浜から花束を贈呈されるなど熱烈な歓迎を受けた[32]

1956年(昭和31年)5月、第六・十京丸とばいかる丸を改装した極星丸で第5次北洋捕鯨に出漁した[24]

1961年(昭和36年)の第10次北洋捕鯨では、日本水産・大洋漁業から各3隻、日本近海捕鯨・日東捕鯨から各1隻の計10隻のキャッチャーボート(うち1隻は漁場調査船)と共に、5月29日に横浜港を出航した。操業中の8月10日、水産庁から鯨類研究所を経て、セミクジラの捕獲調査が要請された。極洋丸船団はセミクジラの捕獲や解剖の経験が無く、経験者は戦前の極洋丸にも搭乗していた作業員長のみという状況だったが、船団で綿密な打ち合わせが行われ、捕獲方法や記録器材が準備された[33]。8月22日9時35分、コディアック島南方の北緯55度54分 東経153度8分 / 北緯55.900度 東経153.133度 / 55.900; 153.133で1頭目を捕獲し、その日のうちに3頭を捕獲。巨大なセミクジラは、かろうじてスリップウェイを通るほどだった。捕獲された1頭目のセミクジラは、解剖後に骨格は東京水産大学に、長さ2.2mの陰茎くじらの博物館に、2.9mの鯨ひげ日本鯨類研究所の会議室にそれぞれ展示されている[34]

1965年(昭和40年)5月24日、大洋漁業系列との共同捕鯨として第14次北洋捕鯨に出航したのが最後の捕鯨となった[25]。極洋丸は1967年(昭和42年)12月8日に売却され[25]、翌1968年(昭和43年)に解体された。

脚注

  1. ^ 『世界の艦船』は9月13日としている[8]
  2. ^ 大本営は9月18日としている[8]
  3. ^ 大洋漁業も、三菱重工業長崎造船所で放置されていた3TL型タンカー大攬丸を1946年(昭和21年)に購入・改装し、第一日新丸として就役させた。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 「日本商船隊の回顧No.98 極洋丸」 船舶技術協会『船の科学』第40巻第9号 1987年 P.18
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 竹内照夫 (1996年8月). “絵で見る日本船史 極洋丸(きょくようまる)”. 日本財団. 2024年2月10日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 写真提供:船の科学館「写真シリーズ 思い出の日本貨物船その255」『世界の艦船』第869集(2017年11月号) 海人社 P.155
  4. ^ a b c d 「捕鯨母船 極洋丸進水」 1938年6月23日付『伯剌西爾時報』 伯剌西爾時報社 JACAR(アジア歴史資料センター) Ref.J23031606400
  5. ^ a b c 横須賀鎮守府『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌』(5) 1942年 JACAR Ref.C08030317200
  6. ^ 「新鋭捕鯨船 極洋丸進水」 1938年6月30日付『伯剌西爾時報』 伯剌西爾時報社 JACAR Ref.J23031606400
  7. ^ a b c d e f g h i j #眞野P.286
  8. ^ a b c d 「24、昭和18年11月24日 徴傭油槽船ノ損耗補填ニ関スル件」 大本営政府連絡会議『重要国策決定綴』其5 1943年 JACAR Ref.C12120224000
  9. ^ a b c d #板橋P.90
  10. ^ #板橋P.89
  11. ^ a b #板橋P.91
  12. ^ 「巨鯨千余頭 極洋丸 凱歌高く歸る」 1939年4月22日付『新世界朝日新聞』 Dayly & Sun JACAR Ref.J21022321000
  13. ^ 「巨鯨千六捕獲 極洋丸神戸へ歸る」 1939年4月21日付『伯剌西爾時報』 伯剌西爾時報社 JACAR Ref.J23031606400
  14. ^ #板橋P.99
  15. ^ 横須賀鎮守府『昭和17年4月1日~昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌』(7) 1942年 JACAR Ref.C08030317200
  16. ^ 燃料課「南方還送燃料ノ処理ニ関スル件」 陸軍省『陸亜密大日記』第42号 2/2 1942年 JACAR Ref.C01000659700
  17. ^ 燃料課「南方還送燃料ノ処理ニ関スル件」 陸軍省『陸亜密大日記』第56号 2/3 1942年 JACAR Ref.C01000852200
  18. ^ a b 「大東亜戦争徴傭船極洋丸行動概見表」 海軍省『昭和17年~19年 大東亜戦争徴傭船舶行動概見表』甲 第3回(6) 1942-1943年 JACAR Ref.C08050025900
  19. ^ 「大東亜戦争徴傭船極洋丸行動概見表」 海軍省『昭和17年1月15日~昭和20年2月28日 第10特別根拠地隊戦時日誌』(4) 1942-1945年 JACAR Ref.C08030256700
  20. ^ 「大東亜戦争徴傭船極洋丸行動概見表」 海軍省『昭和18年~19年 大東亜戦争徴傭船舶行動概見表』甲 第4回(6) 1943-1944年 JACAR Ref.08050029900
  21. ^ a b 佐世保鎮守府『昭和18年9月1日~昭和18年9月30日 佐世保鎮守府戦時日誌』(4) 1943年 JACAR Ref.08030348000
  22. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『船の科学』第8巻第6号 船舶技術協会 1955年 P.16
  23. ^ a b c d #眞野P.6
  24. ^ a b c d e #眞野P.288
  25. ^ a b c #眞野P.291
  26. ^ a b c #眞野P.287
  27. ^ #板橋P.116
  28. ^ #板橋P.128
  29. ^ #板橋P.143-145
  30. ^ #板橋P.128
  31. ^ #眞野P.7
  32. ^ 横浜都市発展記念館 (2020年). “映像でたどる戦後の横浜 「神奈川ニュース」セレクション 1-05 極洋捕鯨船団初入港(昭和30年10月19日)”. Youtube. 2024年2月10日閲覧。
  33. ^ #眞野P.112
  34. ^ #眞野P.113

参考文献

  • 板橋守邦『南氷洋捕鯨史』中央公論社中公新書842〉、1987年6月。ISBN 4-12-100842-1 
  • 眞野季弘 編『くじらの海とともに 極洋のくじらとり達の物語』共同船舶、2002年10月。 

関連項目

第二次世界大戦前の日本の捕鯨母船
第二次世界大戦後の日本の捕鯨母船

外部リンク