川村重吉
川村 重吉(かわむら しげよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏家臣、後に仙台伊達氏家臣、仙台藩士。父は毛利家臣川村常吉。長女の婿養子に川村元吉(加藤頼定の三男)、次女婿養子に川村資吉(日野長門次男)、三女婿養子に川村重成(横山甚蔵次男)がいる。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正3年(1575年)[1] |
死没 | 慶安元年閏1月27日(1648年3月21日) |
改名 | 幼名:万五郎→重吉 |
別名 | 通称:孫兵衛 |
戒名 | 法名:普誓寺普徹聖公居士 |
墓所 | 宮城県石巻市中浦2-2-11 普誓寺 |
官位 | 贈正五位(1915年) |
主君 | 毛利輝元→伊達政宗→忠宗 |
藩 | 仙台藩 |
氏族 | 川村氏 |
父母 | 父:川村常吉 |
子 | 元吉、資吉、重成、女(川村元吉室)、女(川村資吉室)、女(川村重成室) |
生涯
長門国阿武郡(現在の萩)の出身で、毛利輝元に仕えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が大幅に減封された際に浪人となった。その当時伊達領であった近江国蒲生郡滞在中、在京していた伊達政宗にその才能を見出されて[2]、慶長6年(1601年)に、その家臣となる。
毛利家臣の頃にその才能を発揮することはなかったが、治水工事等の土木工事技術に非常に優れた人物であり、関ヶ原後に本拠を移した仙台城下の水不足を解消させるべく、広瀬川の上流から支流を作り、その水を地中に染み込ませることで地下水を確保した。この際に作った用水路が、現在の四ツ谷用水の原型となった。
元和2年(1616年)から寛永3年(1626年)に至り北上川の治水工事を行なって、仙台藩の石高を大きく向上させた。また、これによって陸奥北部との海運も発達した。
子孫は代々門脇村釜に住した。
石巻市制施行50周年の昭和58年(1983年)8月1日に、港町石巻の基礎を築いた大恩人としての業績を後世に伝えるために、重吉の銅像が河北新報社によって建立され、石巻市に寄贈された。現在、日和山公園に設置されている。
異説
- 生年については1574年から1576年まで、諸説ある
- 伊達政宗に仕えたのは、関ヶ原後の慶長5年(1600年)より前という説もある
東北地方太平洋沖地震
平成23年(2011年)3月11日14時46分18秒に発生した東北地方太平洋沖地震によって、菩提寺の普誓寺は津波の大きな被害を受けた。
参考資料
- 『伊達世臣家譜』1巻(田辺希績編)