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吉川興経

戦国時代の武将

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吉川 興経きっかわ おきつね1508年永正5年) - 1550年11月5日天文19年9月27日))は、戦国時代武将吉川元経の子で、吉川国経の孫。

父は興経が幼い頃に戦死したため、祖父の死後、家督を継いだ。吉川氏は藤原南家の血を引く名門だが、興経は武将としての器量は暗愚に近かった。当時の中国地方の二大大名であった大内氏が勢力を拡大したときは大内氏に、尼子氏の勢力が拡大したときは尼子氏に付いて味方するという二股を繰り返したのである。如何に戦国時代とはいえ、このやり方はあまりにひどく、家臣団の間でも興経に対する不信感が高まりつつあった。

このため、吉川氏の家臣団は興経の祖父・吉川国経の娘が毛利元就の妻であるという縁故から、元就の次男・吉川元春を養子として迎えて吉川氏の家督を継がせ、興経は強制的に隠居させられてしまったのである。そして1550年、生かしておいてはいずれ災いの種になるかもしれないと恐れた元就によって、興経とその子供は殺害されたのであった。