(Go: >> BACK << -|- >> HOME <<)

コンテンツにスキップ

「木下周一」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
lk
1行目: 1行目:
[[File:Kinoshita Shuichi.jpg|thumb|200px|木下周一]]
[[File:Kinoshita Shuichi.jpg|thumb|200px|木下周一]]
'''木下 周一'''(きのした しゅういち、[[1851年]][[10月15日]]([[嘉永]]4年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]])- [[1907年]]([[明治]]40年)[[6月4日]])は、[[明治]]期の[[官僚]]。[[都道府県知事|県知事]]。
'''木下 周一'''(きのした しゅういち、[[1851年]][[10月15日]]([[嘉永]]4年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]])- [[1907年]]([[明治]]40年)[[6月4日]])は、[[明治]]期の[[官僚]]。官選[[都道府県知事|県知事]]。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
7行目: 7行目:
帰国後、[[1875年]]8月、[[司法省]]に入り十一等出仕となる。以後、明法権中属、明法中属、[[陸軍省|陸軍]]会計官吏、[[太政官]]権少書記官兼陸軍七等出仕、[[参事院]]議官補、兼陸軍省御用掛、[[内閣法制局|法制局]][[参事官]]、兼[[内閣 (日本)|内閣]][[人事・恩給局|恩給局]]審査官などを歴任。参事院議官補時には[[商法|旧商法]]の編纂に従事した<ref>参考文献「元大分県知事木下周一特旨叙位ノ件」</ref>。
帰国後、[[1875年]]8月、[[司法省]]に入り十一等出仕となる。以後、明法権中属、明法中属、[[陸軍省|陸軍]]会計官吏、[[太政官]]権少書記官兼陸軍七等出仕、[[参事院]]議官補、兼陸軍省御用掛、[[内閣法制局|法制局]][[参事官]]、兼[[内閣 (日本)|内閣]][[人事・恩給局|恩給局]]審査官などを歴任。参事院議官補時には[[商法|旧商法]]の編纂に従事した<ref>参考文献「元大分県知事木下周一特旨叙位ノ件」</ref>。


[[1894年]]1月、[[山形県]]知事に登用され、[[1897年]]4月まで在任。同年5月、[[台湾総督府]]に転じ、鳳山県知事、[[台中州|台中県]]知事を歴任。[[1901年]]11月、台中県知事が廃官となり、[[1902年]]2月、[[埼玉県庁|埼玉県]]知事となる。[[1905年]]9月4日、[[大分県庁|大分県]]知事に転任したが、一週間後の同月11日に依願免本官となる。
[[1894年]]1月、[[山形県庁|山形県]]知事に登用され、[[1897年]]4月まで在任。同年5月、[[台湾総督府]]に転じ、鳳山県知事、[[台中州|台中県]]知事を歴任。[[1901年]]11月、台中県知事が廃官となり、[[1902年]]2月、[[埼玉県庁|埼玉県]]知事となる。[[1905年]]9月4日、[[大分県庁|大分県]]知事に転任したが、一週間後の同月11日に依願免本官となる。


== 栄典 ==
== 栄典 ==
* [[1900年]](明治33年)[[6月30日]] - [[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]<ref>『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年0702日。</ref>
* [[1900年]](明治33年)[[6月30日]] - [[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]<ref>『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年72日。</ref>


==脚注==
==脚注==
18行目: 18行目:
*歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
*歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
*内閣「元大分県知事木下周一特旨叙位ノ件」明治40年。[[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード:A10110258100
*内閣「元大分県知事木下周一特旨叙位ノ件」明治40年。[[アジア歴史資料センター]] レファレンスコード:A10110258100
{{-}}


{{山形県知事|官選第5代:1894-1897}}
{{山形県知事|官選第5代:1894-1897}}
{{埼玉県知事|官選第12代:1902-1905}}
{{埼玉県知事|官選第12代:1902-1905}}
{{大分県知事|官選第11代:1905}}
{{大分県知事|官選第11代:1905}}

{{デフォルトソート:きのした しゆういち}}
{{デフォルトソート:きのした しゆういち}}
[[Category:戦前日本の司法官僚]]
[[Category:戦前日本の司法官僚]]

2015年3月10日 (火) 13:43時点における版

木下周一

木下 周一(きのした しゅういち、1851年10月15日嘉永4年9月21日)- 1907年明治40年)6月4日)は、明治期の官僚。官選県知事

経歴

佐賀藩支藩の家臣の子として生まれる。明治4年1971年)、ドイツに留学しライプツィヒ大学で法律学を学んだ。

帰国後、1875年8月、司法省に入り十一等出仕となる。以後、明法権中属、明法中属、陸軍会計官吏、太政官権少書記官兼陸軍七等出仕、参事院議官補、兼陸軍省御用掛、法制局参事官、兼内閣恩給局審査官などを歴任。参事院議官補時には旧商法の編纂に従事した[1]

1894年1月、山形県知事に登用され、1897年4月まで在任。同年5月、台湾総督府に転じ、鳳山県知事、台中県知事を歴任。1901年11月、台中県知事が廃官となり、1902年2月、埼玉県知事となる。1905年9月4日、大分県知事に転任したが、一週間後の同月11日に依願免本官となる。

栄典

脚注

  1. ^ 参考文献「元大分県知事木下周一特旨叙位ノ件」
  2. ^ 『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年7月2日。

参考文献

  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 内閣「元大分県知事木下周一特旨叙位ノ件」明治40年。アジア歴史資料センター レファレンスコード:A10110258100