「日本の歴史」の版間の差分
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当時の日本列島は[[中国]]から[[倭]]・[[倭国]]と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の国が中国へ通交していたとされる。倭の[[奴国]]王は[[後漢]]へ通使し[[金印]]を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を[[2世紀]]初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に[[帥升]]がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後葉に[[倭国大乱]]と呼ばれる内乱が生じ、その後[[邪馬台国]] |
当時の日本列島は[[中国]]から[[倭]]・[[倭国]]と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の国が中国へ通交していたとされる。倭の[[奴国]]王は[[後漢]]へ通使し[[金印]]を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を[[2世紀]]初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に[[帥升]]がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後葉に[[倭国大乱]]と呼ばれる内乱が生じ、その後[[邪馬台国]]に居住する[[卑弥呼]]が倭国王となった。卑弥呼は[[魏]]との通交により倭国連合の安定を図った。 |
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倭の五王の後、5世紀後葉から[[6世紀]]前葉にかけてヤマト王権内部の政治混乱が見られたが、[[継体天皇]]の登場によりヤマト王権による列島支配が強まり、一方、朝鮮半島への進出傾向は大きく後退した。こうした内向的な時期を経てヤマト王権による支配体制が徐々に強化されていった。 |
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*詳細は'''[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]'''の項を参照。 |
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15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]と呼ぶ。 |
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この時代は、 [[守護大名]]や[[守護代]]、[[国人]]などを出自とする[[戦国大名]]が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、[[分国法]]を定めるなど各地で自立化を強めた。[[一円知行|一円支配]]された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を[[大名領国制]]という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。 |
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*詳細は'''[[安土桃山時代]]'''の項を参照。 |
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信長から天下統一事業を引き継いだ秀吉は、統一事業を完了した。秀吉もまた中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、[[太閤検地]]の実施を通して[[荘園公領制]]・[[職の体系]]を消滅させ、これにより中世は終焉を迎えた。秀吉は[[朝鮮の役|朝鮮への出兵]]を実行して失敗し、後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化した。 |
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秀吉による天下統一が成り、政治や経済の安定がもたらされると、大名と武士を中心として豪壮な文化が展開した。 |
秀吉による天下統一が成り、政治や経済の安定がもたらされると、大名と武士を中心として豪壮な[[桃山文化]]が展開した。 |
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2007年1月28日 (日) 16:41時点における版
日本の歴史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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東京奠都以降を東京時代(1868年 – )とする説もある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
各時代の始期・終期は諸説ある。各記事を参照のこと。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Category:日本のテーマ史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本の歴史(にほんのれきし)、日本史(にほんし)とは、日本または日本列島における歴史である。本項では日本の歴史を概観する。
各時代の詳細は、各時代区分項目(各節の冒頭のリンク先)を参照されたい。
歴史
旧石器時代
- 詳細は日本の旧石器時代の項を参照。
日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼる。約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり、列島全域で広く使用されたが、約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まった。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消した。
約1万2千年前頃、氷河期が終わり急激な温暖化が始まると、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、次の縄文時代へ入っていった。
縄文時代
- 詳細は縄文時代の項を参照。
約1万2千年前頃からは縄文時代と呼ばれる。
この頃の人は縄文式土器を作り、竪穴式住居に住んだ。弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。
弥生時代
- 詳細は弥生時代の項を参照。
紀元前8世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生式土器に由来する。稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。
当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の国が中国へ通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後葉に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国に居住する卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。
古墳時代
- 詳細は古墳時代の項を参照。
3世紀中葉に畿内に出現した前方後円墳が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内・山陽・北部九州に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされる。
4世紀後半からヤマト王権は、武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島南部への進出を開始したが、これを契機として朝鮮半島や中国の技術・文物が倭国へ多く流入することとなった。5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、中国王朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。倭の五王は国内に対し治天下大王と称したが、これは倭国を中国と別個の天下とする意識(小中華主義)の現れとされる。
倭の五王の後、5世紀後葉から6世紀前葉にかけてヤマト王権内部の政治混乱が見られたが、継体天皇の登場によりヤマト王権による列島支配が強まり、一方、朝鮮半島への進出傾向は大きく後退した。こうした内向的な時期を経てヤマト王権による支配体制が徐々に強化されていった。
飛鳥時代
- 詳細は飛鳥時代の項を参照。
6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。
6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。6世紀末、400年ぶりに中国統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらし、倭国でも7世紀前葉にかけて聖徳太子と蘇我氏により遣隋使派遣・冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。
7世紀中葉の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内は国制整備で一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。
奈良時代
- 詳細は奈良時代の項を参照。
8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。
この時期は、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。
また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。
文化面では、日本書紀・万葉集・風土記などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教では鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。
平安時代
- 詳細は平安時代の項を参照。
8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。
平安前期には百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで政府は11世紀初頭ごろから地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。王朝国家では、大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系においては負名体制が形成し、軍事面においては国衙軍制を通じて武士階層が登場した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が政権中枢を担う摂関政治が成立した。
12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の増加が著しくなり、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元・平治両乱を経て武士が政治に進出していき、その結果、平氏政権が登場した。
奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、平仮名・片仮名の使用が開始し、源氏物語・枕草子に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。
鎌倉時代
- 詳細は鎌倉時代の項を参照。
12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。
源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱を経て守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に寄生する存在となった。その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立した。
13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出など、大きな社会変動が生じ始めた。この動きは13世紀後半の元寇によって加速し、幕府の対応策は徳政令発布や得宗専制という形で現れた。また在地社会では悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。
文化面では運慶と快慶の金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面では鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。
南北朝時代
- 詳細は南北朝時代の項を参照。
14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と持明院統の北朝に朝廷が分かれた。室町時代の初期に当たる。
大覚寺統の後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士の不満が増すと、足利尊氏はそれを背景に新政から離れ、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追い、南北朝の争いが全国で行われた。
文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、二条河原落書など文化の庶民化への動きが見られた。
室町時代
- 詳細は室町時代の項を参照。
14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。
足利尊氏が南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開く。孫の足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い日本国王と冊封を受けた。守護大名による内乱が多く、明徳の乱、応永の乱、永享の乱、結城合戦、嘉吉の乱、応仁の乱などと続き、明応の政変を契機に戦国時代に入った。
鎌倉時代から始まった武士による土地の蚕食は、この時代に特に強まり、荘園の年貢の半分を幕府に納める半済や、年貢の取立てを守護が請け負う守護請が一般化した。また、戦時を理由に権限が拡張された守護は、実質的な領主へと変化していった武士を配下に守護大名と呼ばれるようになり、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。
西方では倭寇が朝鮮や中国を襲った。北山文化、東山文化などが栄え、能楽や書院造が生まれ、水墨画が描かれた。
戦国時代
- 詳細は戦国時代の項を参照。
15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。
この時代は、 守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。
そうした流れの中で16世紀中葉に登場した織田信長は、兵農分離などで自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大した。しかし、 本能寺の変で明智光秀により滅ぼされると、その光秀も羽柴秀吉により滅ぼされ、天下統一事業は秀吉が継承することとなった。
この時代、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が開始し、火縄銃やキリスト教などが伝わり、日本社会に一定の影響を与えた。
安土桃山時代
- 詳細は安土桃山時代の項を参照。
信長から天下統一事業を引き継いだ秀吉は、統一事業を完了した。秀吉もまた中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、太閤検地の実施を通して荘園公領制・職の体系を消滅させ、これにより中世は終焉を迎えた。秀吉は朝鮮への出兵を実行して失敗し、後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化した。
秀吉による天下統一が成り、政治や経済の安定がもたらされると、大名と武士を中心として豪壮な桃山文化が展開した。
江戸時代
*詳細は江戸時代の項を参照。
慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。
豊臣秀吉が死去すると、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して征夷大将軍に任じられ、大坂の役で豊臣氏を滅ぼした。幕府は禁中並公家諸法度や武家諸法度で朝廷や大名を統制し、諸大名は参勤交代で江戸と領国の往復を課せられた。幕府はキリシタンを禁止し、島原の乱を経て鎖国を完成させ、オランダや清との長崎の出島における交易がわずかに行われた。李氏朝鮮とは朝鮮通信使による交渉が保たれた。
政治が安定すると経済が発展して、徳川綱吉の時代には好景気に沸き商人や町人が力を伸ばし元禄文化が栄えた。
中期には幕府の財政が悪化し、徳川吉宗は享保の改革を行い一時財政を立て直すが、再び悪化し、その後に寛政の改革、天保の改革などで建て直しが図られたが、根本的な解決にはならなかった。貨幣商品経済の発展にともない、化政文化などの町人文化が栄える一方で、旧来の米の年貢収入を基盤とする大名や旗本は窮乏化した。大名は藩政改革を行い、長州藩や薩摩藩はこれに成功して後に雄藩と呼ばれるようになる。
末期は特に幕末と呼ばれ、欧米諸国から開国を迫られ、ペリーが来航して日米和親条約などの不平等条約が結ばれた鎖国は崩れた。開国にともない尊皇攘夷の考えが強まり、半ば内乱状態になり幕府の権威は弱体化して、遂に徳川慶喜は大政奉還を行い朝廷に政権を還した。
元禄文化や化政文化などの町人文化が栄えた。寺子屋や藩校で広く教育が行われ、歌舞伎が演じられ、俳諧が詠まれ、浮世絵が描かれ、お陰参りなど旅行が行われた。
明治時代
- 詳細は明治時代の項を参照。
朝廷とそれを推戴する諸藩は、王政復古の大号令や戊辰戦争などを経て江戸幕府勢力を退けると、新たな政府(明治新政府)を樹立した。新政府は欧米の諸制度を積極的に導入し、廃藩置県など明治維新と呼ばれる様々な改革を行った。また同時に欧米の文化・文物が導入され、その有様は文明開化と呼ばれた。新政府は帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成と軍事力強化(富国強兵)を国策として推し進め、近代国家の建設は急速に進展した。日本は、日清戦争と日露戦争に勝利を収めた後、列強の一角を占めるようになり、国際的地位を確保していく中で韓国併合を行った。
文化面では欧米から新たな学問・芸術が伝来し、それまでの日本に存在しなかった個人主義に基づく小説という文学が登場するなど、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、仏教弾圧(廃仏毀釈)などの動きも見られた。
大正時代
日本は第一次世界大戦に参戦して勝利し、列強の一つに数えられるようになる。米騒動を契機とする大正デモクラシーと呼ばれる政治運動により、普通選挙が実施され政党政治が成立した。日本は大戦特需による未曾有の好景気に沸くが、大戦が終わるとその反動による深刻な不景気に苦しみ、そこに関東大震災が追い討ちをかけた。
昭和時代
大正期から続いた不景気から回復できないまま、世界恐慌が直撃し、社会不安が増大する。政党政治に代って軍部が力を持ち、満州を占領して満州国を樹立し、やがて中国との泥沼の日中戦争に発展する。アメリカやイギリスの反発を招いて国際連盟を脱退。日本は国際的に孤立してドイツ、イタリアのファシスト政権と三国同盟を結び、第二次世界大戦(太平洋戦争)に突入した。
日本軍はアメリカ軍の物量に圧倒され、原爆を投下されて太平洋戦争に敗れた。戦後はGHQの占領の下で、日本国憲法が制定され、天皇は象徴とされ、国民主権や平和主義などが定められた。サンフランシスコ平和条約により主権を回復し、日米安全保障条約が結ばれ、冷戦下の西側陣営となる。政治的には自民党と社会党の保革55年体制が続く。経済的には高度経済成長を遂げ、経済大国と呼ばれるに至った。昭和の末期にはバブル経済と呼ばれる好景気に沸いた。
平成時代
- (詳細は平成時代の項を参照。)
昭和末期から続いたバブル経済が崩壊し、長い不景気に苦しみ、経済面での構造改革が進められる。政治面では冷戦が終結した結果、自民党と社会党との55年体制が消滅して保守化傾向が進展。長年タブーだった自衛隊の海外派遣が行われ、憲法改正や教育基本法改正が論議されるようになった。
時代区分
日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説とよべるものはない。しかしながら、一応のところ、(原始・)古代・中世・近世・近代(・現代)とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期をいつにおくかは論者によって大きく異なる。
古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、6世紀と見る説、7世紀初頭と見る説、律令国家が形成された7世紀後半と見る説などがある。中世については、中世通じての社会経済体制であった荘園公領制が時代の指標とされ、始期は11世紀後半~12世紀の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した16世紀後半の太閤検地にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、明治維新前後に終わるとされる。近代の始期は一般に幕末期~明治維新期とされるが、18世紀前半の家内制手工業の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、太平洋戦争での敗戦をもって近代と現代を区分することもある。(以上の詳細→古代、中世、近世、近代、現代)
上記のような時代区分論は、発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える「時代移行論」を提唱する研究者も現れ始めている。
一般によく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献史料がなく考古史料が残る時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治センターの所在地に従って、飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と区分するが、これだけでは必ずしも十分でないため南北朝時代・戦国時代という区分を設けており、これらは中国史の時代区分からの借用である。江戸時代の次は本来なら「東京時代」と呼称すべきであろうが、天皇の在位に従って明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と呼ばれている。(詳細→日本史時代区分表)
また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化・明治文化・大衆文化~などとする区分もある。(詳細→日本の文化#歴史)
論争
歴史学・歴史観
歴史をどのような立場から見てゆくか、歴史観によって歴史の解釈は変わってくる。以下、近代以降の日本における主要な歴史観・歴史学の変遷を概観する。
- 皇国史観
- 日本は天皇を中心とした政治体制が続いてきたとして、それを正当化する史観。戦前に国定史観として扱われ、小中学校で教育された。
- 唯物史観(マルクス主義歴史学)
- マルクス主義の理論に基づき、歴史の発展を経済中心に見てゆく。実証主義歴史学と並んで戦後歴史学の主潮流をなし、学会に多くの支持者がいた。1970年代後期ごろから次第に衰退していった。
- 実証主義歴史学
- 19世紀ドイツの歴史家ランケによって確立された厳密な史料批判を行い、客観的な事実を確定し、歴史記述を行う。戦前から実証主義歴史学の流れは存在したが、皇国史観の台頭によって傍流に追いやられた。戦後は、マルクス主義歴史学と並んで歴史学の主潮流をなした。
以上の他、次のような歴史観が存在するという主張もある。
- 司馬史観
- 司馬遼太郎の歴史小説に見られる人間観察などを指す。学術的な史観ではないが、政財界を中心に多くの支持者がいる。
- 網野史観
- 中世史家・網野善彦の独特な歴史認識を指す。(「『日本』ありきの日本史」ではなく、「日本列島での人々の歴史」として「日本の歴史」を観る。百姓=農民ではない、など)
- 自由主義史観
- 教育学者・藤岡信勝の唱えた史観。保守勢力を中心に支持者がいる。経済重視の唯物史観への反発から、一部の人物が歴史をリードしてきたという英雄史観的な色彩が濃い。