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「ブエノスアイレス」の版間の差分

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== 政治 ==
== 政治 ==
[[File:Atardecer en el Congreso de la Nación Argentina.jpg|thumb|[[国会議事堂 (アルゼンチン)|アルゼンチン国会議事堂]]]]
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1880年の首都によって正式にアルゼンチン共和国の首都となり、政府や議会が置かれている。ただし同法令によりブエノスアイレス州の州庁ブエノスアイレス市から南東ラ・プラタ市に移されてい
'''[[1880年]]の首都法'''によって正式に[[アルゼンチン|アルゼンチン共和国]]の首都に定められ現在も政府機関や議会が置かれている。しかし、同法では[[ブエノスアイレス州]]の州庁所在地がブエノスアイレス市から南東にある[[ラプラタ (アルゼンチン)|ラ・プラタ市]]に移転されることも規定されてい


=== 地方政治 ===
=== 地方政治 ===

2024年5月24日 (金) 13:08時点における版

ブエノスアイレス

 Buenos Aires
アルゼンチンの旗
ブエノスアイレス自治市
Ciudad Autónoma de Buenos Aires


紋章
愛称: 
The Queen of El Plata (La reina del Plata)[1][2]
The Paris of South America (La París de Sudamérica)[3]
地図
アルゼンチンの位置
ブエノスアイレスの位置(アルゼンチン内)
ブエノスアイレス
ブエノスアイレス
アルゼンチンの位置
ブエノスアイレスの位置(南アメリカ内)
ブエノスアイレス
ブエノスアイレス
ブエノスアイレス (南アメリカ)
座標:南緯34度35分59秒 西経58度22分55秒 / 南緯34.5997度 西経58.3819度 / -34.5997; -58.3819座標: 南緯34度35分59秒 西経58度22分55秒 / 南緯34.5997度 西経58.3819度 / -34.5997; -58.3819
アルゼンチンの旗 アルゼンチン
建設 1536年2月2日(ペドロ・デ・メンドーサ)
1580年6月11日 (フアン・デ・ガライ
政府
 • 種別 自治市
 • 政府長官 オラシオ・ロドリゲス・ラレッタ
面積
 • 自治市 203 km2
 • 陸地 203 km2
 • 都市圏
4,758 km2
標高
25 m
人口
(2022年調査)[4]
 • 順位 1位
 • 密度 15,372人/km2
 • 都市部
3,120,612人
 • 都市圏
15,624,000人
等時帯 UTC−3 (アルゼンチン時間)
市外局番 011
ウェブサイト www.buenosaires.gob.ar ウィキデータを編集 (スペイン語)

ブエノスアイレス自治市(ブエノスアイレスじちし、西: Ciudad Autónoma de Buenos Aires、CABA)、通称ブエノスアイレス西: Buenos Aires)は、アルゼンチン首都[5]には属さず[注釈 1]、他23州とともにアルゼンチンを構成する。

大ブエノスアイレス都市圏都市圏人口2016年時点で1,428万人であり、世界第21位である[6]

建国以来アルゼンチンの政治、経済、文化の中心である。アルゼンチンの縮図ともなっている一方で、内陸部との差異が大きすぎるため、しばしば「国内共和国」と呼ばれる。

概要

「南米のパリ」の異名を持つブエノスアイレスは、南米屈指の美しい都市である。

ラ・プラタ川(銀の川)を挟んでウルグアイコロニア・デル・サクラメントと対峙するこの街は、スペイン語で「良い空気」という意味を持つ。 かつて船乗りにとって順風を願う象徴だったこの名前は、まさに街の活気と魅力を体現している。

独立当時は人口5万人ほどの小さな町だったブエノスアイレスは、サルミエント政権による欧州化政策によって多くの移民を受け入れ、中南米の中でも最も欧州的な街へと変貌を遂げた。 その後、20世紀には南米随一の繁栄を誇ったアルゼンチンの首都として、長らく南米最大級の都市として君臨していた。

1970年代以降の経済悪化により、南米最大の都市の座はブラジルサンパウロに譲ったものの、ブエノスアイレスは現在でもスペイン語圏都市として重要な役割を果たしている。 2019年のアメリカのシンクタンクによる世界都市ランキングでは、南米の都市の中で首位に輝き、その国際的な評価を証明している。

かの有名なアルゼンチン・タンゴはこの街のボカ地区で生まれ、サッカー強豪国としても知られるアルゼンチンを代表する街である。 ディエゴ・マラドーナを輩出したボカ・ジュニアーズCAリーベル・プレートなど、名門チームを数多く擁し、常に熱い戦いが繰り広げられている。

ブエノスアイレスの市民はポルテーニョと呼ばれる。 港の街という意味を持つこの呼び名は、海と共にあるこの街のアイデンティティを象徴している。

ブエノスアイレスは、美しい街並み、豊かな文化、情熱的な人々など、多くの魅力を持つ街である。 一度訪れれば、誰もがその虜になること間違いなしだろう。

歴史

1516年スペイン王の命により新大陸を探検していたスペイン人航海者フアン・ディアス・デ・ソリスは、ラプラタ川に到達した。ソリスは、ラプラタ地域に到達したとされる最初のヨーロッパ人である。しかし、現在のウルグアイ領で、先住民のチャルーア族に襲撃され、命を落とした。ソリスの死後、ラプラタ地域の探検は一時中断されたが、その後、他のスペイン人探検家によって再開され、地域の詳細な調査が進められた。

1536年創設当初のブエノスアイレス市の風景図。

1536年2月2日、バスク人貴族でスペインの探検家だったペドロ・デ・メンドーサ一行の人々は、リオ・デ・ラ・プラタ川流域を探検していた際に、現在のアルゼンチン首都ブエノスアイレス近郊に「ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリーア・デル・ブエン・アイレ市」(良き風の我々の聖母マリア市)を建設しました。しかし、先住民の食糧や物資の略奪、住民への襲撃などの包囲攻撃と飢餓のため1541年にやむを得ず放棄され、生き延びた人々はパラナ川沿いに北上してアスンシオン(現在のパラグアイ首都)を建設しました。

1580年、ヨーロッパ人植民団がアスンシオンからパラナ川を下り、フアン・デ・ガライの指揮のもと、ラ・トリニダー市として再建しました。当初、ラ・プラタ地域の皮革などを輸出する貿易港として繁栄を誇ったこの街でしたが、16世紀から17世紀の大半にかけて、スペイン植民地政府はヨーロッパへの輸出品をすべてペルーリマを経由することを強制しました。この政策により、市内の貿易業者は不満を募らせ、イギリスフランスオランダとの密貿易が盛んになりました。

1776年ブラジル方面から侵攻を続けるポルトガルからバンダ・オリエンタルを防衛するため、そしてペルー副王領が分離されてリオ・デ・ラ・プラタ副王領が設置されると、ブエノスアイレス副王領の首府となり、正式に開港されました。しかし、スペイン当局による貿易制限に不満を募らせていたクリオーリョたちにとっては、この措置は不十分であり、さらなる自治拡大を求める声が強まっていきました。

フランス革命後、ヨーロッパでの戦乱の中でスペインフランスと同盟を結んだ結果、イギリススペインの敵対国となりました。イギリスは南米におけるスペインの影響力拡大を阻止するため、1806年ブエノスアイレス侵攻を試みました。当時の副王は逃亡しましたが、ポルテーニョ民兵隊は副王不在のままイギリス軍を撃退し、翌1807年再侵略をも撃退しました。この勝利で自信をつけたポルテーニョたちは、スペインへの忠誠心を揺るがせていき、独立への意識を高めていきました。現在もブエノスアイレス市民のことをポルテーニョ(港の人)と呼ぶのは、この時の民兵隊の名前が由来となっています。

五月革命

1808年ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍スペインに侵攻すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。1810年5月25日、五月革命が勃発し、ラ・プラタ副王はポルテーニョたちに追放され、自治政府が樹立された。1816年7月9日、トゥクマンの議会でブエノスアイレスを首都とするリオ・デ・ラ・プラタ連合州の独立が宣言された。独立後すぐに連邦同盟のアルティーガス派(ウルグアイ独立運動家ホセ・アルティーガス率いる派閥)との内戦が続いたが、各州の妥協により、ブエノスアイレス州に連合政府の外交権が委譲された。1821年、ベルナルディーノ・リバダビアが州内務大臣として手腕を発揮し、さらにブエノスアイレス大学が設立された。

ベルナルディーノ・リバダビア

1825年、ブラジル戦争の最中に、連合州はアルゼンチン共和国へと改名されました。ベルナルド・リバダビア大統領は、中央政府の権限強化を目的とし、ブエノスアイレス市を連邦直轄区とした憲法を公布しました。しかし、この憲法は、ブエノスアイレス港の管理権を中央政府に移譲することなどをめぐり、連邦派と統一派の激しい反発を受け、結局頓挫しました。さらに、ブラジル戦争の失敗も重なり、リバダビア大統領は失脚することとなりました。

リバダビア政権の崩壊後、連邦派のマヌエル・ドレーゴが戦争の指導を継続したが、イギリスの圧力により、1828年のモンテビデオ条約でウルグアイの独立を認めさせられた(事実上の引き分け)。帰還兵たちは、戦争での犠牲に見合う報酬や社会復帰支援を受けられず、経済的困窮と政治的冷遇に苦しんでいた。この不満が高まる中、1828年、統一派のフアン・ラバージェがドレーゴを暗殺し、自ら州知事となった。しかし、ラバージェもまた独裁的な統治を行い、連邦派と統一派の対立は激化した。1829年、帰還兵たちの支持を背景とした連邦派勢力がラバージェを打倒し、フアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事に就任した。ロサスは独裁的な権力を行使し、アルゼンチンにおける連邦主義と統一主義の対立をさらに深化させた。

1835年、ロサスが再び州知事に返り咲いた。ロサスは州内随一の「馬上の人」 (モントネロ) として知られ、自らもガウチョより巧みに馬を操ったと伝えられる。 黒人、都市下層民、ガウチョ、友好的なインディオから圧倒的な支持を得ていたロサスは、その人々からなる派閥「ロサシート」を率いて街を練り歩き、街はロサスの肖像画と、彼が好んだ連邦派の赤色で埋め尽くされた。秘密警察が市民を監視し、多くの自由主義者がチリのサンティアゴをはじめとする国外へ亡命するに至った。

しかし1852年、連邦派でロサスの腹心だったフスト・ホセ・デ・ウルキーサは、ブラジル、ウルグアイと同盟を結んでエントレ・リオス州からロサスに対して反旗を翻す。 1852年2月3日、ブエノスアイレス郊外のカスエロスの丘(現在は市街地化されている)でロサスはウルキーサ軍と激突するが敗れ、イギリスへ亡命し、失脚することとなった。

ウルキーサは連邦主義を体制化することを望み、フアン・バウティスタ・アルベルディが起草した1853年憲法を連邦憲法に制定し、同年アルゼンチン連邦の成立を宣言した。 しかしブエノスアイレス州は連邦派の支配を嫌い離反し、連邦はエントレ・リオス州のパラナを首都とした。その後、連邦とブエノスアイレスの間で戦争が繰り返されたが、1862年11月、州知事のバルトロメ・ミトレがウルキーサをバポンの戦いで破ると、ブエノスアイレスが連邦を併合する形で国家統一が実現し、アルゼンチン共和国の成立が宣言された。

ミトレは、当時のアルゼンチン自由主義者と同様に、ヨーロッパ文化を崇拝し、ガウチョ、インディオ、黒人を野蛮なものとして嫌悪していました。こうした自由主義者が政権を握ったことが、ブエノスアイレスから黒人が消えていく大きな要因の一つとなりました。

1865年に行われたアルゼンチン初の国勢調査では、全人口165万人のうち、黒人は約2万人を占めていました。しかし、1864年にパラグアイのロペス元帥が起こした三国同盟戦争では、黒人が人口比に比べて不均衡な規模で徴兵されました。さらに、1871年には黄熱病が流行し、黒人コミュニティに大きな打撃を与えました。これらの出来事により、生き残った黒人はウルグアイなどの周辺国へ移住することを余儀なくされ、ブエノスアイレスから黒人の姿が消えていくことになったのです。

1880年のラ・ボカの港

1880年、ブエノスアイレス市はブエノスアイレス州の強い抵抗を押し切って分離独立し、連邦直轄区となりました。これにより、ブエノスアイレスは正式にアルゼンチンの首都となり、政治・経済・文化の中心地としての役割を確立しました。

同時期、カサ・ロサダはアルゼンチン大統領府として使用されるようになりました。この建物は1819年に建てられ、当初は郵便局として利用されていました。その後、政府機関や議事堂として使用され、1886年に大統領府となりました。

自由主義政権を担ったロカ大統領は、積極的な移民政策を推進しました。欧州各国から多くの移民がブエノスアイレスに流入し、都市の発展に大きく貢献しました。特にラ・プラタ川河口に位置するラ・ボカ地区には、イタリア系移民が多く集住しました。彼らによって、タンゴは活気あふれるダンスへと進化を遂げ、アルゼンチンを代表する文化となりました。

輸出経済の進展に伴い、アルゼンチンには広大な鉄道網が整備されました。主要な鉄道は全てブエノスアイレスのレティーロ駅に接続され、国内各地との物流網が確立されました。この鉄道網は、アルゼンチンの経済発展を支える重要なインフラとなり、都市化や人々の生活にも大きな影響を与えました。

1911年、ブエノスアイレス地下鉄A線が五月広場から市内西部へ開通。これは、スペイン語圏及び南半球初の地下鉄として歴史的な出来事だった。1920年代以降、アルゼンチンは第一次世界大戦後の好景気により繁栄を極めました。その結果、ブエノスアイレスは南北アメリカ大陸最大規模の都市の一つへと成長し、国内各地から多くの人々が仕事を求めて移住してきました。しかし、都市への人口流入が急増した一方で、十分な住宅やインフラ整備が追い付かず、郊外には多くの貧困層が居住する巨大なスラム街(ビジャス・ミセリアス)が形成されました。

1976年、ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍率いる軍部は、国家再組織過程と称し「汚い戦争」と呼ばれる弾圧を展開しました。 この弾圧は、反体制派や左翼活動家だけでなく、政治活動に関与していない一般市民も巻き込み、多くの人命が失われました。犠牲者数は3万人とも言われています。

しかし、経済の回復どころか、日々のストライキ、デモ、暴動が頻発し、社会情勢は悪化の一途を辿りました。

1987年、急進市民同盟のラウル・アルフォンシン政権下では、ブエノスアイレスの一極集中を緩和するため、首都をパタゴニア北端のリオネグロ州ビエドマ市に移転する法案が下院を通過しました。

しかし、上院で否決され、遷都案は頓挫してしまいました。

1992年3月17日、ブエノスアイレスにあるイスラエル大使館がイラン政府と関連するイスラム過激派組織によるテロ攻撃を受け、22人が死亡、300人以上が負傷しました。当時、レバノン系アルゼンチン人であったカルロス・メネム大統領は、このテロ行為を強く非難しました。この事件はアルゼンチン史上最悪のテロ事件であり、その後の両国関係に大きな影響を与えました。

近年、ブエノスアイレスでは政情が安定し、大規模な暴動は減少傾向にあります。しかし、小規模な衝突やデモは依然として発生しており、特に注意が必要です。

サッカーの試合では、サポーター同士の衝突が稀に起こります。ボカジュニオルの試合では、特に負け試合の際に暴動が発生しやすいので、十分な注意が必要です。

マルビナス戦争帰還兵による抗議活動も時折行われます。デモの規模や内容は、政治情勢や経済状況によって変動します。

ブエノスアイレスを訪れる際には、最新の情報を確認し、人通りの多い場所や夜間の外出を避けるなど、基本的な防犯対策をしっかりと行うことが重要です。

景観

ブエノスアイレス中心部のパノラマ
プエルト・マテロ地区からのブエノスアイレスの夜景
マージョ(五月)広場の夜景
7月9日大通りとオベリスコ

政治

アルゼンチン国会議事堂

1880年の首都法によって正式にアルゼンチン共和国の首都に定められ、現在も政府機関や議会が置かれている。しかし、同法ではブエノスアイレス州の州庁所在地がブエノスアイレス市から南東にあるラ・プラタ市に移転されることも規定されていた。

地方政治

選挙によって選ばれたブエノスアイレス市政府長官(es:Anexo:Jefes de gobierno de la ciudad de Buenos Aires)が首長である。議会はブエノスアイレス市議会(es:Legislatura de la Ciudad de Buenos Aires)で、一院制を採用している。

国政

国政では下院の25議席と上院の3議席が割り当てられている。大統領選挙の場合の結果は非常に流動的かつ他地域とは大きく異なった結果が出ることがあり、ブエノスアイレス市でのみ最多得票を得る候補者が出現するほどである。

行政区

ブエノスアイレス市は、コムーナ(comuna、「共同体」という意味)と呼ばれる15の区域に分けられ、またバリオ(Barrio、「地区」という意味)と呼ばれる48の区域に分けられる。

地理

ラ・プラタ川流域を捉えた衛星写真

パンパの真ん中に位置し、東を大西洋に接している。市内をリアチュエーロ川ラ・プラタ川が流れる。

市内東部のラ・プラタ川沿岸の南海岸公園スペイン語版は1985年にユネスコ生物圏保護区に指定され[7]、2005年にラムサール条約登録地となった[8]。一帯にはパンパの草地のほか、沼地湿地およびヨーロッパエノキ英語版Celtis ehrenbergiana英語版の乾燥森林が広がり、ピューマオセロットアメリカヌマジカクロエリハクチョウなどが生息している[7][8]

気候

気候は温暖湿潤気候で四季がある。しかし南半球にある為、北半球日本とは季節が逆になり、一番暑いのは1月(平均気温25.1℃)、一番寒いのは7月(平均気温10.9℃)である。年間通じて降雨があるものの年中一定というわけではなく、3月と10月、11月がやや多く、6月と7月はやや少ない。年間降水量は1214mm[9]。史上最高気温は1957年1月29日に記録された43.3℃である[10]

ブエノスアイレス (1981–1990)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 43.3
(109.9)
38.7
(101.7)
37.9
(100.2)
36.0
(96.8)
31.6
(88.9)
28.5
(83.3)
30.2
(86.4)
34.4
(93.9)
34
(93)
34
(93)
36.8
(98.2)
40.5
(104.9)
43.3
(109.9)
平均最高気温 °C°F 30.4
(86.7)
28.7
(83.7)
26.4
(79.5)
22.7
(72.9)
19.0
(66.2)
15.6
(60.1)
13.9
(57)
17.3
(63.1)
18.9
(66)
22.5
(72.5)
25.3
(77.5)
28.1
(82.6)
21.5
(70.7)
日平均気温 °C°F 25.1
(77.2)
23.7
(74.7)
21.4
(70.5)
17.7
(63.9)
14.3
(57.7)
11.2
(52.2)
10.9
(51.6)
12.7
(54.9)
14.2
(57.6)
17.7
(63.9)
20.6
(69.1)
23.2
(73.8)
17.72
(63.92)
平均最低気温 °C°F 20.4
(68.7)
19.4
(66.9)
17.0
(62.6)
13.7
(56.7)
10.3
(50.5)
7.6
(45.7)
7.4
(45.3)
8.9
(48)
9.9
(49.8)
13.0
(55.4)
15.9
(60.6)
18.4
(65.1)
12.9
(55.2)
最低気温記録 °C°F 5.9
(42.6)
4.2
(39.6)
2.8
(37)
−2.3
(27.9)
−4
(25)
−5.3
(22.5)
−5.4
(22.3)
−4
(25)
−2.4
(27.7)
−2
(28)
1.6
(34.9)
3.7
(38.7)
−5.4
(22.3)
降水量 mm (inch) 121.6
(4.787)
122.6
(4.827)
153.9
(6.059)
106.9
(4.209)
92.1
(3.626)
50.0
(1.969)
52.9
(2.083)
63.2
(2.488)
77.7
(3.059)
139.3
(5.484)
131.2
(5.165)
103.2
(4.063)
1,214.6
(47.819)
平均降水日数 9 9 9 9 8 6 7 8 7 10 10 9 101
湿度 65 70 72 77 76 79 79 74 71 69 68 64 72.0
出典:Servicio Meteorológico Nacional[9]

環境

ブエノスアイレス都心部の衛星写真

アルゼンチンの全産業の中心地でもあるため、都市部を中心に環境汚染が酷い。特にリアチュエロ川の汚染が酷くなっている。

経済

2008年、プライスウォーターハウスクーパースの公表した調査によると、ブエノスアイレスの都市GDPは3620億ドルであり、世界第13位である[11]。南米ではサンパウロに次いで第2位。また2011年3月、英国のシンクタンクにより、世界第64位の金融センターと評価されており、南米ではサンパウロリオデジャネイロに次ぐ第3位である[12]

アルゼンチンはブエノスアイレス一極集中型の経済を持ち、ブエノスアイレスはアルゼンチンのすべての産業の中心となっている。

ブエノスアイレスは港町として発展してきた歴史を持ち、現在でもアルゼンチン最大の港を持つ。世界有数の肥沃な農業地域であるパンパの中心部にあり、さらにラ・プラタ川の水運とも連絡があるため、アルゼンチンの主要輸出品である牛肉小麦大豆トウモロコシ、さらに羊毛皮革などの輸出港として発展してきた。ラ・プラタ川を通じてパラグアイと、さらにウルグアイやブラジルともつながりがあり、アルゼンチンのみならず南アメリカ大陸南部の物流拠点となっている。

工業としては、パンパからの農業輸出に関連した食品加工や製粉業、皮革工業に加え、自動車や石油精製、繊維や出版などの産業も盛んである。

交通

地下鉄 新型の300形
レティーロ駅の近郊列車
ウルグアイ行きフェリー

ブエノスアイレス市内で最も一般的な移動手段はコレクティーボ(市内バス)と地下鉄であり、タクシーも使いやすい。20世紀を通じて多く利用された鉄道は、市内や郊外では21世紀に入り更に便利になっているが、中・長距離路線は1993年より減少傾向のため、国内の地方都市や海外を訪れるには長距離バスや航空機を使うことが多い。

鉄道と地下鉄

ブエノスアイレスには地下鉄ライトレールトラム、近郊列車があり、近郊列車の路線網はアメリカ大陸ではニューヨークに次いで第2位の規模を誇る。また、1993年より減便・廃止が進んでいるものの同州各都市や同国各都市へ向かう中・長距離列車も運行されている。

長距離バス

レティーロ駅のすぐ近くにレティーロ長距離バスターミナルがあり、国内各地やブラジル、ウルグアイ、パラグアイボリビアチリペルーといった近隣諸国を結ぶ便がひっきりなしに発着している。利用者の多い路線では新しい2階建てバスも使用されている。

市内交通

市内はコレクティーボ(バス)が多数運行しており、24時間運行している。タクシーは黄色と黒で塗り分けられている。

海運

プエルト・マデーロ地区のフェリー乗り場から、ブケブス社によりウルグアイのコロニア・デル・サクラメントモンテビデオ行きのフェリーが毎日運行している。

空港

国内線はホルヘ・ニューベリー空港 (AEP)から運行しており、ポルテーニョからはアエロパルケと呼ばれて親しまれている。国際線はブエノスアイレス州エセイサにあるミニストロ・ピスタリーニ国際空港 (EZE) から運行し、ラテンアメリカ諸国やヨーロッパ北アメリカオセアニアアフリカを結んでいる。

観光

コロン劇場(テアトロ・コロン)
ラ・ボカ地区のカミニート(2008年)

主な観光地としてはコロン劇場ブエノスアイレス大聖堂、レコレータ墓地、カミニートなど。

ラプラタ川沿いには「パレルモの森」と呼ばれる広大な緑地があり、市民の憩いの場所となっている。かつてフアン・マヌエル・デ・ロサスの私邸があった場所で、カセーロスの戦い英語版の日を記念して、公式には「2月3日公園」という名称が付けられている。

フロリダ通り、ラバージェ通りは日夜観光客で賑わい、サン・テルモ地区には「バー・スール」、「エル・ビエホ・アルマセン」を始めとした多くの老舗タンゲリア(タンゴ・バー)があり、多くの観光客を引き寄せている。

市民

ブエノスアイレス市民はポルテーニョ英語版と呼ばれ、プロビンシアーノと呼ばれる内陸部の住民とはお互いに感情的対立がある。

ブエノスアイレス市には303万人(2007年)の人口が居住しているが、ブエノスアイレス州の一部を含めた周辺の大ブエノスアイレス都市圏には約1240万人が居住している。これは国民の約3割ほどである。

住民の大多数を19世紀半ばから20世紀初めに移民してきたヨーロッパ系の白人が占めるが、その一方で、国内の貧しい州から移住してきた先住民系のアルゼンチン人や、近隣のボリビアパラグアイからの移民、日系人中国系人、韓国系人、台湾系人、ラオス系人などのアジア系アルゼンチン人は見た目で非白人だと分かる人も多い。また、アフリカ系アルゼンチン人はかつてに比べれば大きくその数を減らしたが、それでもいなくなったわけではない。

市域は15のコムーナ(共同体)、48のバリオ(地区)に分けられる。

文化

「南米のパリ」として知られ、白人系人口と、ヨーロッパ的な建築物の多さにより、南アメリカで最もヨーロッパ的な都市となっている。

建築

ブエノスアイレス大聖堂
街頭でのタンゴ舞踊

ブエノスアイレス市は五月広場が中心地であり、広場付近にはブエノスアイレス大聖堂カサ・ロサダ、国立銀行などの重厚な建築物が多い。7月9日大通りにはオベリスコがあり、その近くには世界三大劇場の1つ、コロン劇場がある。

大聖堂にはアルゼンチン、チリ、ペルーの解放者、ホセ・デ・サン=マルティン将軍の亡骸が安置されている。

言語

ロサリオ、モンテビデオと共に、リオプラテンセ・スペイン語が話される最大の都市である。ポルテーニョのアクセントはイタリア語のナポリ方言に近い。

アルゼンチンは19世紀に多くの移民を受け入れ、移民の多くはブエノスアイレスに定着したため、今でもブエノスアイレスではドイツ語フランス語ガリシア語など多種多様な言語が話されている。

南米先住民の言語もパラグアイからの移民によるグアラニー語や、ブエノスアイレスで最も危険なスラムとなっているボリビア人街ではアイマラ語が使われている。 アジア系の言語も近年増加したアジア系の移民により、中国語ラーオ語、ボリビア人街のすぐ側の韓国人街では韓国語が日常的に使われている。日系人もいるが、日本語はあまり話されていない。

タンゴ

アルゼンチン・タンゴの本場である。タンゴはこの街のラ・ボカで発祥したとも言われている。

スポーツ

サッカー

ブエノスアイレスには、アルゼンチンリーグプリメーラ・ディビシオン(1部)に所属するプロサッカークラブが4つ存在しており、世界的にも非常に有名なボカ・ジュニアーズリーベル・プレートを筆頭に、サン・ロレンソウラカンなどのクラブもある。

ボカ・ジュニアーズのホームタウンであるラ・ボカ地区には、1938年にサッカー専用スタジアムラ・ボンボネーラLa Bombonera)が建設され、1996年には改修工事が行われメインスタンドにVIP専用のボックス席を増設。さらに警備上の問題からスタジアムとピッチの間に設置されていた金網のフェンスの代わりに、透明な防弾ガラスを設置し臨場感が増すようになった。

一方で、リーベル・プレートも当初はラ・ボカ地区からクラブをスタートしたものの、現在はヌニェス地区を本拠地としている。ホームスタジアムは、収容人数7万人のエル・モヌメンタルEl Monumental)である。

エル・モヌメンタルでは『1978 FIFAワールドカップ・決勝』も開催された

教育

姉妹都市・友好都市

ブエノスアイレス市と姉妹関係にある都市を列挙する。

ブエノスアイレス市と姉妹関係にある地域や州を列挙する。

写真集

プエルト・マテロ地区の黄昏

脚注

注釈

  1. ^ なお、1880年の首都令以来、ブエノスアイレス州の州都はラ・プラタ市である

出典

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参考文献

  • 松下マルタ/松下洋訳「ブエノスアイレス 南米のパリからラテンアメリカ型首都へ」『ラテンアメリカ都市と社会』国本伊代、乗浩子編、新評論、1991年(ISBN 4-7948-0105-X
  • 栗本斉『ブエノスアイレス 雑貨と文化の旅手帖』毎日コミュニケーションズ、2008年(ISBN 978-4-8399-2530-7)
  • 栗本斉『アルゼンチン音楽手帖』DU BOOKS(ディスクユニオン)2013年 ISBN 978-4-925064-79-8

関連項目

外部リンク