(Go: >> BACK << -|- >> HOME <<)

コンテンツにスキップ

「フェルッチオ・ランボルギーニ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
36行目: 36行目:
2003年頃、日本の自動車雑誌「GENROQ」([[三栄書房]])の企画{{Full citation needed|date=2019年8月}}で、漫画家の[[池沢さとし]]がランボルギーニ夫人の元へ取材に赴いた際には、フェルッチオがエンツォにあしらわれたという俗説は、事実とは異なると夫人は否定している(実際、エンツォとフェルッチオは4回会談している)
2003年頃、日本の自動車雑誌「GENROQ」([[三栄書房]])の企画{{Full citation needed|date=2019年8月}}で、漫画家の[[池沢さとし]]がランボルギーニ夫人の元へ取材に赴いた際には、フェルッチオがエンツォにあしらわれたという俗説は、事実とは異なると夫人は否定している(実際、エンツォとフェルッチオは4回会談している)
<ref>ちなみに、取材場所は、ランボルギーニ家の経営する農場だったが、ランボルギーニ夫人は、白いLP400(当然MT仕様)を自分で運転して現れた。</ref>。<!--この取材は、フェラーリF360の限定車の試乗も兼ねて3か月連続で連載された企画だったので、掲載は2002~2003年頃だったはず。-->
<ref>ちなみに、取材場所は、ランボルギーニ家の経営する農場だったが、ランボルギーニ夫人は、白いLP400(当然MT仕様)を自分で運転して現れた。</ref>。<!--この取材は、フェラーリF360の限定車の試乗も兼ねて3か月連続で連載された企画だったので、掲載は2002~2003年頃だったはず。-->
彼女によると、フェルッチオがフェラーリのオーナーとなり、実際に使用した結果、その品質に疑問を持った点までは事実だが、工業機械メーカーのオーナーらしく、彼の考えた改善案を書簡として[[エンツォ・フェラーリ]]に送ったが、採用は丁重られた<ref>俗説では、エンツォ本人が直接フェルッチオをバカにしたように語られるが、フェラーリとて、必要ならば、出荷先の要望により、現地の法規に応じた仕様変更や、特別な顧客の要望にあわせた仕様での制作も行っているので、いくら何でも無下に断るとは考えがたい。</ref>。そのため、高級GTの利益率が意外と高いこともあわせて、それならせっかくなので自分で商売としてやってみようと、一発奮起してチャレンジした、というのが真相だそうである。
彼女によると、フェルッチオがフェラーリのオーナーとなり、実際に使用した結果、その品質に疑問を持った点までは事実だが、工業機械メーカーのオーナーらしく、彼の考えた改善案を書簡として[[エンツォ・フェラーリ]]に送ったが、丁重りの返事が届いた<ref>俗説では、エンツォ本人が直接フェルッチオをバカにしたように語られるが、フェラーリとて、必要ならば、出荷先の要望により、現地の法規に応じた仕様変更や、特別な顧客の要望にあわせた仕様での制作も行っているので、いくら何でも無下に断るとは考えがたい。</ref>。そのため、高級GTの利益率が意外と高いこともあわせて、それならせっかくなので自分で商売としてやってみようと、一発奮起してチャレンジした、というのが真相だそうである。
また、フェルッチオは、俗説から非常に短気というイメージが強いが、夫人によると、短気ではあるものの暴力的な性質は全くなく、単にチャレンジ精神旺盛で決断力に富んでいた。
また、フェルッチオは、俗説から非常に短気というイメージが強いが、夫人によると、短気ではあるものの暴力的な性質は全くなく、単にチャレンジ精神旺盛で決断力に富んでいた。
事実、部下からの提案もやみくもに突っぱねるのではなく、当時のチーフエンジニア・[[ジャンパオロ・ダラーラ]]からミッドシップ2座スポーツカー「ミウラ」開発を進言された時も、一旦は腕を組んで話を聞き考え、自分の自動車観とは違っていても「まあいい。どうせそんな車、売れないんだから」と黙認する器の大きさがあった。
事実、部下からの提案もやみくもに突っぱねるのではなく、当時のチーフエンジニア・[[ジャンパオロ・ダラーラ]]からミッドシップ2座スポーツカー「ミウラ」開発を進言された時も、一旦は腕を組んで話を聞き考え、自分の自動車観とは違っていても「まあいい。どうせそんな車、売れないんだから」と黙認する器の大きさがあった。

2021年6月12日 (土) 02:49時点における版

フェルッチオ・ランボルギーニFerruccio Lamborghini, 1916年4月28日 - 1993年2月20日)はイタリアの自動車メーカーアウトモビリ・ランボルギーニSPA(現ランボルギーニ)の設立者。

経歴

フェルッチオ・ランボルギーニ(1970年)

1916年4月28日、ボローニャ市近くのレナッツォ(フェラーラ県チェント市内)の裕福な農家に生まれる。 家業には興味を持たず、幼いころから機械好きで工科大学に進学。卒業後の1939年に徴兵され自動車部隊の配属となり、イタリア植民地だったギリシャロドス島に送られる。島では総督の運転手を務めた。1944年に捕虜となり戦後、除隊後は島で修理工場を営み、1946年、33歳でイタリアに帰還した。帰国後は軍放出のトラックを元にトラクターの製造販売を行う。1949年にランボルギーニトラットリーチ社を設立。1963年、アウトモビリ・ランボルギーニSPAを設立し自動車の製造販売に乗り出す。ボリビアクーデターにからむトラクター売買契約のキャンセルから資金難に陥り、1971年ランボルギーニトラットリーチ社を売却。アウトモビリ・ランボルギーニSPAの株の51%を手放し再建を図るも1972年に訪れたオイルショックにより、1974年に残りの49%も手放し自動車業界から引退。晩年は旅行中にひと目ぼれした土地を購入し、人生最後にとワイン作りやバラの栽培に情熱を傾けていた。

1993年2月20日、心臓発作で死去。76歳。

人物

典型的なイタリアーノ。熱血漢で人情家で親分肌のフェルッチオを慕う者は多い。

俗説

フェルッチオが自動車製造に進出するきっかけになった事件として、以下のような俗説が伝わっている。

エアコンとトラクターで当てたフェルッチオは、憧れのフェラーリを購入。一度、御大・エンツォに会って話をしたいと思い訪れたが、エンツォはフェルッチオを門前払い。プライドを傷つけられたフェルッチオは「フェラーリ以上の車を作って見返してやる」と心に誓った。

トラクターの製造販売で財を成したフェルッチオは、当時のイタリア成金の例に漏れずフェラーリを購入。そのフェラーリが故障した際に、送られてきたパーツがランボルギーニトラットリーチ社で使っていた部品(ボーグ&ベッツィ製クラッチと言われる)と同じ上に10倍の値段が付いていたことに激怒。フェラーリに乗り込み苦情を言ったが、成金のたわ言と鼻であしらわれ、自身で自動車の製造販売に乗り出すことを決意したのだ(実際は「同じ部品が10倍で売れる自動車はビジネスになる」と、自動車製造に乗り出す)。

良く知られている彼のモットー;

「(前略)…私は、多くのグラン・トゥリズモの中に、いくつかの欠点を見いだした。暑すぎたり、乗り心地が悪かったり、十分に速くなかったり、仕上げが完全でなかったりするのだ。今や私は欠点のないグラン・トゥリズモを造りたい。技術的な化け物ではなく、正常で、非常に常識的で、しかも完璧なクルマを。」
(他には、この部品をこの値段で買う顧客がいるならいい商売になる、と思いカービジネスを思い立ったという現実的な説もある)

フェラーリを買う顧客をターゲットにアウトモビリ・ランボルギーニSPAを設立した。

この俗説の真偽のほどは定かではないが、彼が若い頃から熱心なカーマニアで、一時はチューニングカーガレージの経営までしていた点や、当時のフェラーリ・ストラダーレの品質は決して高くなかった点、にもかかわらずフェラーリの販売台数が年間5000台近い規模に膨らんでいた点などを考えれば、全くの的外れとも言えず、事実を下地に多少ドラマチックに仕立てた伝説的俗説と言えるだろう(また、名門フェラーリの高慢さやアフターサービスのいい加減さに対する反感、ミラノ人とピエモンテ人の伝統的な反目、そして洋の東西を問わぬ「高慢な名門に楯突く貧しい熱血漢」への共感も、この伝説が信じられる下地となった)。「レースには出ない」と言う社是も、自身がレースで大けがをした事や、当時レースに興味を持っていた息子を刺激したくなかったという事もあるが、目指していたものがフェラーリのようなレーシングスポーツカーではなく、快適で高品質・高性能なGT(グラン・トゥリズモ)だったからからである。エアコンメーカーでもあったので「いくら性能が良くても、暑さで隣のご婦人のマスカラが取れてしまうような車はダメだ」と、全車にエアコンを用意した。


2003年頃、日本の自動車雑誌「GENROQ」(三栄書房)の企画[要文献特定詳細情報]で、漫画家の池沢さとしがランボルギーニ夫人の元へ取材に赴いた際には、フェルッチオがエンツォにあしらわれたという俗説は、事実とは異なると夫人は否定している(実際、エンツォとフェルッチオは4回会談している) [1]。 彼女によると、フェルッチオがフェラーリのオーナーとなり、実際に使用した結果、その品質に疑問を持った点までは事実だが、工業機械メーカーのオーナーらしく、彼の考えた改善案を書簡としてエンツォ・フェラーリに送ったが、丁重な断りの返事が届いた[2]。そのため、高級GTの利益率が意外と高いこともあわせて、それならせっかくなので自分で商売としてやってみようと、一発奮起してチャレンジした、というのが真相だそうである。 また、フェルッチオは、俗説から非常に短気というイメージが強いが、夫人によると、短気ではあるものの暴力的な性質は全くなく、単にチャレンジ精神旺盛で決断力に富んでいた。 事実、部下からの提案もやみくもに突っぱねるのではなく、当時のチーフエンジニア・ジャンパオロ・ダラーラからミッドシップ2座スポーツカー「ミウラ」開発を進言された時も、一旦は腕を組んで話を聞き考え、自分の自動車観とは違っていても「まあいい。どうせそんな車、売れないんだから」と黙認する器の大きさがあった。

2019年、フェルッチオ・ランボルギーニの生涯を描いた映画「Lamborghini – The Legend」が公開予定。主演はアントニオ・バンデラス

関連項目

脚注

  1. ^ ちなみに、取材場所は、ランボルギーニ家の経営する農場だったが、ランボルギーニ夫人は、白いLP400(当然MT仕様)を自分で運転して現れた。
  2. ^ 俗説では、エンツォ本人が直接フェルッチオをバカにしたように語られるが、フェラーリとて、必要ならば、出荷先の要望により、現地の法規に応じた仕様変更や、特別な顧客の要望にあわせた仕様での制作も行っているので、いくら何でも無下に断るとは考えがたい。

参考文献

外部リンク