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*トウメイという名前の由来であるが、[[1968年]]に部分開通(全線開通は[[1969年]])した「[[東名高速道路]]」の略称だという説があるがこれは間違いで、当初名付ける予定だった「メイトウ(銘刀)」が使用不可だった為、「メイ」と「トウ」をひっくり返して「トウメイ」としたというのが本当である<ref>他の例として、『[[テンポイント]]の母として有名な[[ワカクモ]]の名前の由来が、その母[[クモワカ]]の名前のひっくり返し』と言う例がある。</ref>。
*トウメイという名前の由来であるが、[[1968年]]に部分開通(全線開通は[[1969年]])した「[[東名高速道路]]」の略称だという説があるがこれは間違いで、当初名付ける予定だった「メイトウ(銘刀)」が使用不可だった為、「メイ」と「トウ」をひっくり返して「トウメイ」としたというのが本当である<ref>他の例として、『[[テンポイント]]の母として有名な[[ワカクモ]]の名前の由来が、その母[[クモワカ]]の名前のひっくり返し』と言う例がある。</ref>。


*トウメイの後半の主戦を勤めた清水騎手曰く「トウメイは自分で仕掛け所を判断できる賢い馬であったが、下手なタイミングで鞭を使うと気分を損ねて走る気を無くす言う問題を抱えていた」そうで、これがラスト3戦の走り<ref>事実、清水騎手がレース中に鞭を使ったのは、最初で最後の[[中山競馬場|中山]]出走となった有馬記念だけであった。</ref>に影響を与えたと言う。
*トウメイの後半の主戦を勤めた清水騎手曰く「トウメイは自分で仕掛け所を判断できる賢い馬であったが、下手なタイミングで鞭を使うと気分を損ねて走る気を無くす言う問題を抱えていた」そうで、これがラスト3戦の走り<ref>事実、清水騎手がレース中に鞭を使ったのは、最初で最後の[[中山競馬場|中山]]出走となった有馬記念だけであった。</ref>に影響を与えたと言う。


*有馬記念の週に関東地区の中央競馬でも拡大の様相を呈した[[馬インフルエンザ|馬流感]]騒動は長期化し、競走馬の輸送は大幅に制限された。そのためトウメイの[[栗東トレーニングセンター|栗東]]への輸送許可がおりず、結局権利があったにも関わらずトウメイの引退式は行われなかった。
*有馬記念の週に関東地区の中央競馬でも拡大の様相を呈した[[馬インフルエンザ|馬流感]]騒動は長期化し、競走馬の輸送は大幅に制限された。そのためトウメイの[[栗東トレーニングセンター|栗東]]への輸送許可がおりず、結局権利があったにも関わらずトウメイの引退式は行われなかった。

2008年12月29日 (月) 13:30時点における版

トウメイ
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1966年5月17日
死没 1997年4月7日
シプリアニ
トシマンナ
母の父 メイヂヒカリ
生国 日本北海道静内町
生産者 谷岡増太郎
馬主 近藤克夫
調教師 清水茂次
→佐藤勇
→坂田正行
競走成績
生涯成績 31戦16勝
獲得賞金 1億5097万0100円
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トウメイ1966年 - 1997年)は、日本競走馬1971年天皇賞(秋)有馬記念を連勝して史上初の牝馬啓衆社賞年度代表馬に選出された。代表産駒には、母と同じ天皇賞(秋)を制し2007年時点で唯一の天皇賞母子制覇を成し遂げたテンメイがいる。

誕生

トウメイの母トシマンナは初代有馬記念優勝馬メイヂヒカリを父に持つ良血だったが、見てくれの悪さが響き交配相手に苦慮。やっとの思いで手に入れた人気種牡馬トサミドリとの交配も、土壇場でキャンセルされてしまった。結局、売り出し始めたばかりのシプリアニに変更して、1966年5月17日トウメイは谷岡牧場で誕生した。

誕生当初は小柄な事を除けば良好な馬体だったが、成長するにつれ母譲りの見てくれの悪さが現れ、後に「ネズミ」と言われる馬体に変貌していった。そのため抱き合わせ商法紛いの方法でも引き取り手がなく、庭先取引で買い手がつかなかったトウメイはセリ市に出されることになった。トウメイはそこで一般購入馬平均価格の半分程度の165万円で落札され、抽せん馬並の安価で売却されることとなった。なお、この間に伊藤雄二調教師がトウメイを購入しようとしたが、同行した馬主に馬格のなさを指摘され、購入を諦めている[1]

やっとセリで買い手が付いたトウメイは、藤沢牧場[2]で競走馬になるための基礎トレーニングを受ける事になった。ところが、預かる予定になっていた地方競馬大井所属)の高木清調教師の死去により、トウメイは行き場を失う。結局、セリ市に同席していた中央競馬所属の清水茂次調教師がトウメイを引き取る事となった。

戦績

馬齢は旧表記に統一する。

3歳

急遽引き取った事もありトウメイには担当の厩務員がおらず、手が空いていたスタッフが面倒を見ていた。しかし、デビュー戦で人気薄の2着に飛び込み、連闘で挑んだ2戦目で勝ち上がり、ここで正式に担当厩務員が付く事となった。その後トウメイは自身ワーストタイの5着を挿んで3連勝(破った相手には1970年天皇賞(春)の優勝馬リキエイカンもいる)を飾り、クラシック戦線の関西の代表と目されるようになった。

4歳

翌年、2戦1勝2着1回でトウメイはクラシックシーズンに突入した。しかし、桜花賞優駿牝馬(オークス)と共に単勝1番人気に支持されながらも結果は桜花賞2着[3]、オークス3着[4]に敗れる。だが、崩れずに常に掲示板に載る好走を見せ、馬券人気は高かった。事実、トウメイの人気は前年11月3日条件戦(単勝4番人気1着)以降、翌年2月28日のオープン戦(単勝4番人気2着)以外は単勝3番人気以内であった。そしてトウメイの力は年齢と共に大きく高まっていく。

5歳

年明けに清水茂次調教師が急逝するという混乱があったものの、無事に坂田正行調教師の厩舎に移籍した1970年春には、新設重賞マイラーズカップダテホーライや同期の菊花賞優勝馬アカネテンリュウといった牡馬の一線級相手に勝利。天皇賞挑戦も考えられたが自重し、阪急杯に出走したが、ここでよもやの2着に敗れる。更に白腺裂(裂蹄の一種)という奇病を発症していることが判明し、トウメイは長期戦列離脱を余儀なくされる。「安馬がここまで活躍したのだから」と、この機会に引退繁殖入りも取り沙汰されたが、トウメイの能力は未だ引き出されていないと感じた陣営は現役続行を選択した。

6歳

脚部不安による休養の後に復帰した1971年、緒戦こそ5着に沈んだもののその後は引退まで連対を続け、4月11日にはマイラーズカップを連覇。この時も1970年菊花賞優勝馬ダテテンリュウタマホープといった牡馬に勝利を収めている。前年2着敗退の阪急杯も勝ち、トウメイは天皇賞挑戦の英気を養うべく秋まで休養する事になる。

休み明けのオープン戦2着後、オークス以来の関東遠征初戦として出走した牝馬東京タイムズ杯では、他馬との斤量差5kg以上(59㎏)にも関わらず重馬場の大外を馬なりで差し切るという圧巻のレース振りで勝利する。続く秋の天皇賞でも前走と同じく外から差し切って半馬身差で快勝した。この時、「マイル女王」という評価だったトウメイが牡馬と共に3200mの天皇賞に挑戦することに懐疑的な声があったが、これに対し鞍上の清水英次騎手は「マイルを2回走るつもりで乗ればいい[5]」と発言した。

そして迎えた暮れの有馬記念では、折しも関東地区で発生した馬流感騒動が起き、罹患して取り消す馬[6]も発生し僅かに6頭立ての競走となった。トウメイはここで東京優駿(日本ダービー)優勝馬ダイシンボルガードやこの年の春の天皇賞優勝馬メジロムサシを抑え1馬身半差で勝利し、この年の啓衆社賞年度代表馬、最優秀5歳以上牝馬に選出された。そしてトウメイはこの競走を最後に現役引退となった。

なお2008年現在、JRA賞年度代表馬になった牝馬は他にエアグルーヴ1997年)しかいない。トウメイはガーネツトスターロツチに次いで3頭目の牝馬の有馬記念優勝馬であり、牝馬による有馬記念の勝利は、37年後のダイワスカーレット2008年)まで現れなかった。

31戦16勝、掲示板を外した事は一度も無く、2着10回、3着2回、着外(4・5着)3回、さらには同一年に1600mと3200mの両方の重賞に勝ったという成績は見事なものであり、牡馬でもなかなかここまでの成績は残すのは難しく、名牝と呼ばれるに相応しい一頭と言える。生涯獲得賞金は購入金額の約100倍となる1億5000万円で、当時の牝馬最高獲得賞金だった。

母として

彼女の名前が再び脚光をあびることになったのは、息子テンメイによるものである。

流感騒動の為に馬主が用意した幕別牧場で繁殖生活を送れなくなり、やむなくトウメイは育成時代を送った藤沢牧場で暫くの間繁殖生活を送る事になった。相変わらずの貧弱な馬体ゆえに、種付け時にトウメイと信じて貰えず種付けを後回しにされる事もあった。しかし、この時期にルイスデールとトウメイの間に生まれたテンメイは、1977年菊花賞で2着に入り、翌1978年の秋の天皇賞を制覇する。2023年現在まで母と息子による天皇賞制覇はトウメイ・テンメイ母子のみである。

テンメイ以外の産駒では、テンメイの全兄ホクメイが北海道営競馬に移籍後、道営記念などを制しているが、この2頭以外に優秀な産駒に恵まれず、最高傑作になると目されたシンザンとの間の仔もデビュー前に骨折予後不良とツキも無かった。1991年、オーナー死去により幕別牧場は実質閉鎖となったが、繁殖生活を終えたばかりのトウメイだけはそのまま残り、1997年4月7日老衰により32歳の大往生を遂げるまでここで過ごす事となった。32歳まで生きたという点では、シンザンやカネケヤキに並ぶ長寿の名馬であった。因みに、幕別牧場は馬こそ居なくなったものの、墓参りに訪れるファンの為に牧場の看板は未だに掲げたままである。

エピソード

  • トウメイの曾祖母に当たる第六マンナであるが、競走馬時代は馬主・渋沢栄一の曽孫・大川慶次郎に因んでケイバンリュウの名前で出走していた。因みに、大川はトウメイの母の父であるメイヂヒカリとも縁がある御仁でもある。
  • 抱き合わせ紛いの方法(2頭買ったらトウメイを無料で付ける)でも引き取り手がいなかったトウメイであるが、この時引き取りを拒否した馬主の一人にダイシンボルガードの馬主・高橋金次がいた。ダイシンボルガードはトウメイの勝てなかったクラシック制覇(しかも、クラシック最高峰・日本ダービー優勝)を成し遂げたものの、逆にトウメイが成し遂げた古馬最高峰・天皇賞と有馬記念制覇を共に成し遂げられず、後に高橋は『あの時引き取って置けば良かった、あの馬には(ダイシンボルガードでは)勝てない』と語っている。
  • トウメイという名前の由来であるが、1968年に部分開通(全線開通は1969年)した「東名高速道路」の略称だという説があるがこれは間違いで、当初名付ける予定だった「メイトウ(銘刀)」が使用不可だった為、「メイ」と「トウ」をひっくり返して「トウメイ」としたというのが本当である[7]
  • トウメイの後半の主戦を勤めた清水騎手曰く「トウメイは自分で仕掛け所を判断できる賢い馬であったが、下手なタイミングで鞭を使うと気分を損ねて走る気を無くすと言う問題を抱えていた」そうで、これがラスト3戦の走り[8]に影響を与えたと言う。
  • 有馬記念の週に関東地区の中央競馬でも拡大の様相を呈した馬流感騒動は長期化し、競走馬の輸送は大幅に制限された。そのためトウメイの栗東への輸送許可がおりず、結局権利があったにも関わらずトウメイの引退式は行われなかった。

脚注

  1. ^ 『優駿』での伊藤の回想による。
  2. ^ リーディングトレーナーの常連として知られる藤沢和雄調教師(美浦所属)の実家である。
  3. ^ 1着は二冠馬コダマ代表産駒のヒデコトブキ
  4. ^ 1着はレッツゴーターキンの祖母シャダイターキン
  5. ^ 実は、クラシック時代の主戦騎手高橋成忠の受け売りであった。
  6. ^ その中にはアカネテンリュウと前年の天皇賞(秋)優勝馬のメジロアサマがいた。
  7. ^ 他の例として、『テンポイントの母として有名なワカクモの名前の由来が、その母クモワカの名前のひっくり返し』と言う例がある。
  8. ^ 事実、清水騎手がレース中に鞭を使ったのは、最初で最後の中山出走となった有馬記念だけであった。

血統表

トウメイ血統ナスルーラ系Gainsborough5×5・5=9.38% トウルヌソル4×4=12.50%(母内) (血統表の出典)

*シプリアニ
Cipriani
1958 黒鹿毛
父の父
Never Say Die
1951 栗毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Singing Grass War Admiral
Boreale
父の母
Carezza
1953 鹿毛
Rockefella Hyperion
Rockfel
Canzonetta Turkhan
Madrigal

トシマンナ
1958 栗毛
メイヂヒカリ
1952 鹿毛
クモハタ *トウルヌソル
*星旗
シラハタ *プリメロ
第四バッカナムビューチー
母の母
トシフジ
1951 栗毛
トキノチカラ *トウルヌソル
*星谷
第六マンナ *シアンモア
マンナ F-No.1-b
先代
スピードシンボリ
年度代表馬
1971年
次代
イシノヒカル
先代
メジロアサマ
天皇賞・秋勝ち馬
1971年
次代
ヤマニンウエーブ
先代
スピードシンボリ
有馬記念勝ち馬
1971年
次代
イシノヒカル