(Go: >> BACK << -|- >> HOME <<)

コンテンツにスキップ

「ダイハツ工業」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
100行目: 100行目:
[[File:Daihatsu Charade G10 Viera 2016a.jpg|thumb|right|200px|シャレードのラリーカー]]
[[File:Daihatsu Charade G10 Viera 2016a.jpg|thumb|right|200px|シャレードのラリーカー]]
[[File:Masatoshi Ogura - 2006 Rally Japan.jpg|thumb|right|200px|ブーンのラリーカー]]
[[File:Masatoshi Ogura - 2006 Rally Japan.jpg|thumb|right|200px|ブーンのラリーカー]]
[[File:Daihatsu Midget II EV 001.jpg|200px|thumb|right|ミジェットEVレーシングカー]]
[[File:Daihatsu Midget II EV 001.jpg|200px|thumb|right|ミットIIカーゴをベースに電気自動車に改造したEVレーシングカー]]
1965年に[[ダイハツ・コンパーノ|コンパーノ・スパイダー]]で地方のレースに参加したのがダイハツのモータースポーツデビューとなる。このときP-1、P-2と異なる仕様のコンパーノが同時期に登場していた。
1965年に[[ダイハツ・コンパーノ|コンパーノ・スパイダー]]で地方のレースに参加したのがダイハツのモータースポーツデビューとなる。このときP-1、P-2と異なる仕様のコンパーノが同時期に登場していた。
1966年にダイハツは[[ダイハツ・コンパーノ|コンパーノ・ベルリーナ]]の1.0リッターエンジンを1.3リッター[[DOHC]]16バルブ化した「R92A」型エンジンを、[[プロトタイプレーシングカー]]のP-3に搭載して[[1966年日本グランプリ (4輪)|第三回日本グランプリ]]にデビュー。ライバルの[[ロータス・エリート]]と[[アバルト]]・[[シムカ (自動車メーカー)|シムカ]]を破ってGP-Iクラスで優勝を収めた。このP-3は「ピー子ちゃん」という愛称で親しまれた。翌年の[[1967年日本グランプリ (4輪)|第四回]]では同クラスに、風洞実験で開発したFRPボディ&ミッドシップエンジンのP-5を2台投入。しかしメカニカルトラブルで予選を走れず、決勝に進むことができなかった<ref>[http://www.car-l.co.jp/news_view.php?news_num=12335 第270回・ダイハツのPシリーズ] 車屋四六のGood Days&Good Cars</ref>。[[1968年日本グランプリ (4輪)|第五回]]ではP-5の4台体制を敷き、総合10位でクラス優勝を再び取り戻した。続く[[鈴鹿1000km]]では、[[トヨタ・7]]と[[ポルシェ・906]]に次ぐ総合3位フィニッシュを果たしている。1969年の第六回に向けてもフェロー7を公開していたものの結局参戦せず、6月の[[富士1000km]]を最後にチームは解散。ダイハツはサーキットの大舞台から姿を消した。なおトヨタ・7の開発にはダイハツの風洞施設が用いられている他、幻の5.0リッターターボの開発にもダイハツが参加していた<ref>ベストカー 12月26日号 194-196ページ『蘇ったDAIHATSU P5』 平成30年12月26日 講談社刊</ref>。
1966年にダイハツは[[ダイハツ・コンパーノ|コンパーノ・ベルリーナ]]の1.0リッターエンジンを1.3リッター[[DOHC]]16バルブ化した「R92A」型エンジンを、[[プロトタイプレーシングカー]]のP-3に搭載して[[1966年日本グランプリ (4輪)|第三回日本グランプリ]]にデビュー。ライバルの[[ロータス・エリート]]と[[アバルト]]・[[シムカ (自動車メーカー)|シムカ]]を破ってGP-Iクラスで優勝を収めた。このP-3は「ピー子ちゃん」という愛称で親しまれた。翌年の[[1967年日本グランプリ (4輪)|第四回]]では同クラスに、風洞実験で開発したFRPボディ&ミッドシップエンジンのP-5を2台投入。しかしメカニカルトラブルで予選を走れず、決勝に進むことができなかった<ref>[http://www.car-l.co.jp/news_view.php?news_num=12335 第270回・ダイハツのPシリーズ] 車屋四六のGood Days&Good Cars</ref>。[[1968年日本グランプリ (4輪)|第五回]]ではP-5の4台体制を敷き、総合10位でクラス優勝を再び取り戻した。続く[[鈴鹿1000km]]では、[[トヨタ・7]]と[[ポルシェ・906]]に次ぐ総合3位フィニッシュを果たしている。1969年の第六回に向けてもフェロー7を公開していたものの結局参戦せず、6月の[[富士1000km]]を最後にチームは解散。ダイハツはサーキットの大舞台から姿を消した。なおトヨタ・7の開発にはダイハツの風洞施設が用いられている他、幻の5.0リッターターボの開発にもダイハツが参加していた<ref>ベストカー 12月26日号 194-196ページ『蘇ったDAIHATSU P5』 平成30年12月26日 講談社刊</ref>。
106行目: 106行目:
[[世界ラリー選手権|WRC]]には1979年から[[ダイハツ・シャレード|シャレード]]で[[ラリー・モンテカルロ]]にスポット参戦し、1981年にクラス優勝を挙げた。1984年からは[[サファリラリー]]に参戦。シャレードは多数のクラス優勝をする活躍を見せ、1993年には排気量で1L上回るグループAマシン([[スバル・インプレッサ]]、[[三菱・ランサーエボリューション]]など)を押しのけ、総合1~4位の[[トヨタ・セリカ]]に次ぐ5位〜7位を占めてダイハツのWRC挑戦は幕を下ろした。またシャレードを[[グループB]]化し最高クラスに参戦する計画もあり、コンセプトモデルの926Rも発表していたものの、突然のグループB消滅により立ち消えとなっている。
[[世界ラリー選手権|WRC]]には1979年から[[ダイハツ・シャレード|シャレード]]で[[ラリー・モンテカルロ]]にスポット参戦し、1981年にクラス優勝を挙げた。1984年からは[[サファリラリー]]に参戦。シャレードは多数のクラス優勝をする活躍を見せ、1993年には排気量で1L上回るグループAマシン([[スバル・インプレッサ]]、[[三菱・ランサーエボリューション]]など)を押しのけ、総合1~4位の[[トヨタ・セリカ]]に次ぐ5位〜7位を占めてダイハツのWRC挑戦は幕を下ろした。またシャレードを[[グループB]]化し最高クラスに参戦する計画もあり、コンセプトモデルの926Rも発表していたものの、突然のグループB消滅により立ち消えとなっている。


国内では[[ラリー]]・[[ダートトライアル]]で活躍。全日本ラリーでは1984年にシャレードで初めてクラスタイトルを獲得した。1990年代には[[ダイハツ・ミラ|ミラ]]の4WDターボ仕様であるTRXX X4Rを投入し、[[スズキ・アルト|アルトワークス]]や[[スバル・ヴィヴィオ|ヴィヴィオ]]と激しく争い、全日本ラリーで3度クラスタイトルを獲得。1998年に[[ダイハツ・ストーリア|ストーリアX4]]が登場すると黄金時代を迎え、[[全日本ラリー選手権]]・[[ダートトライアル|全日本ダートトライアル選手権]]の両方で2000年〜2005年までクラスタイトルを連覇した。ストーリアX4は後継車の[[ダイハツ・ブーン|ブーンX4]]が登場した後も、規則で禁止されるまでの2014年まで参戦し続け、2012~2014年に異なったドライバーたちでJN1クラスを3連覇した。後継のブーンX4も2006年にJN2クラスでタイトルを獲得し、2008年のWRC([[ラリージャパン]])にスポット参戦(1,300ccモデルのみFIA公認車両となっており「X4」は日本国内競技でのみ有効なJAF登録車両なのでFIA主催の国際イベント(WRC)には参戦不可だったため、FFの1,300ccモデルに輸出用MTを組み、登録車名も海外名シリオン/ブーンとして出場)し、N1クラス優勝もしている。このようにダイハツは国内外の[[モータースポーツ]]に積極的に参戦してきたが、[[2009年]][[1月13日]]、「昨今の自動車業界を取り巻く経済状況の厳しい状況」および「(年を追うごとに)深刻化する若年層の車離れなどを理由に、[[モータースポーツ]]活動自体からの撤退とDRSの解散、関連会社DCCSが主催する[[ジムカーナ]]競技会[[ダイハツチャレンジカップ]]の終了を発表した。
国内では[[ラリー]]・[[ダートトライアル]]で活躍。全日本ラリーでは1984年にシャレードで初めてクラスタイトルを獲得した。1990年代には[[ダイハツ・ミラ|ミラ]]の4WDターボ仕様であるTRXX X4Rを投入し、[[スズキ・アルト|アルトワークス]]や[[スバル・ヴィヴィオ|ヴィヴィオ]]と激しく争い、全日本ラリーで3度クラスタイトルを獲得。1998年に[[ダイハツ・ストーリア|ストーリアX4]]が登場すると黄金時代を迎え、[[全日本ラリー選手権]]・[[ダートトライアル|全日本ダートトライアル選手権]]の両方で2000年〜2005年までクラスタイトルを連覇した。ストーリアX4は後継車の[[ダイハツ・ブーン|ブーンX4]]が登場した後も、規則で禁止されるまでの2014年まで参戦し続け、2012~2014年に異なったドライバーたちでJN1クラスを3連覇した。後継のブーンX4も2006年にJN2クラスでタイトルを獲得し、2008年のWRC([[ラリージャパン]])にスポット参戦(1,300ccモデルのみFIA公認車両となっており「X4」は日本国内競技でのみ有効なJAF登録車両なのでFIA主催の国際イベント(WRC)には参戦不可だったため、FFの1,300ccモデルに輸出用MTを組み、登録車名も海外名シリオン/ブーンとして出場)し、N1クラス優勝もしている。このようにダイハツは国内外の[[モータースポーツ]]に積極的に参戦してきたが、[[2009年]][[1月13日]]、「昨今の自動車業界を取り巻く経済状況の厳しい状況」および「(年を追うごとに)深刻化する[[若者の車離れ|若年層の車離れ]]などを理由に、[[モータースポーツ]]活動自体からの撤退とDRSの解散、関連会社DCCSが主催する[[ジムカーナ]]競技会[[ダイハツチャレンジカップ]]の終了を発表した。


以降はメーカーワークスとしてのモータースポーツ活動は行っていないが、スポーツカスタマイズブランドとして'''D-SPORT'''が存在する。[[大阪市]]の独立系自動車部品商社「[[SPK (企業)|SPK]]」の1部門でダイハツ工業と直接の資本関係はないが、東京オートサロンにダイハツ工業が出展する際は毎年ダイハツ工業のブースで車両・商品展示を行うなど深い関係を持っており、全ダイハツディーラーでも唯一商品の取り扱いがある。またかつてダイハツのワークス活動を率いたDRS(ダイハツ・レーシング・サービス)の名を冠する競技向けパーツの販売も行っている。また元々のDRSの母体であったDCCSは現在も長野県[[佐久市]]に存在する。
以降はメーカーワークスとしてのモータースポーツ活動は行っていないが、スポーツカスタマイズブランドとして'''D-SPORT'''が存在する。[[大阪市]]の独立系自動車部品商社「[[SPK (企業)|SPK]]」の1部門でダイハツ工業と直接の資本関係はないが、東京オートサロンにダイハツ工業が出展する際は毎年ダイハツ工業のブースで車両・商品展示を行うなど深い関係を持っており、全ダイハツディーラーでも唯一商品の取り扱いがある。またかつてダイハツのワークス活動を率いたDRS(ダイハツ・レーシング・サービス)の名を冠する競技向けパーツの販売も行っている。また元々のDRSの母体であったDCCSは現在も長野県[[佐久市]]に存在する。

2021年3月7日 (日) 09:59時点における版

トヨタ自動車 > トヨタグループ > ダイハツ工業
ダイハツ工業株式会社
Daihatsu Motor Co., Ltd.
ダイハツ工業 本社
左奥は企業博物館ヒューモビリティワールド
種類 株式会社
市場情報 非上場(以下は過去のデータ)
東証1部 7262
1949年5月 - 2016年7月27日
本社所在地 日本の旗 日本
563-8651
大阪府池田市ダイハツ町1番1号
設立 1907年明治40年)3月1日
(発動機製造株式会社)
業種 輸送用機器
法人番号 3120901019710 ウィキデータを編集
事業内容 自動車車種一覧を参照)
代表者 代表取締役会長 松林 淳
代表取締役社長 奥平総一郎
資本金 284億400万円
(2015年3月31日現在)
発行済株式総数 4億2712万2966株
売上高 1兆4350億円(2020年03月31日時点)[1]
営業利益 1000億円(2020年03月31日時点)[1]
経常利益 1210億円(2020年03月31日時点)[1]
純利益 980億円(2020年03月31日時点)[1]
純資産 4240億円(2020年03月31日時点)[1]
総資産 9150億円(2020年03月31日時点)[1]
従業員数 単体:1万1446人
連結:4万2575人
(2015年3月31日現在)
決算期 3月31日
主要株主 トヨタ自動車 100%
関係する人物 白水宏典(元会長)
伊瀬芳吉(元社長)
伊奈功一(元社長)
三井正則(元社長)
横山裕行(元副社長)
加藤光久(元取締役)
寺師茂樹(元取締役)
吉田守孝
木梨憲武
外部リンク https://www.daihatsu.co.jp/
テンプレートを表示

ダイハツ工業株式会社(ダイハツこうぎょう、: Daihatsu Motor Co., Ltd.)は、主に軽自動車、および総排気量1,000cc以下小型車を主力とする日本自動車メーカーである。本社所在地は大阪府池田市ダイハツ町トヨタグループ16社のうちの一社で、日野自動車などと共にトヨタ自動車完全子会社(機能子会社)である。

現在のコーポレーションスローガンは「Light you up 〜らしく、ともに軽やかに〜」。

概要

現在量産車を手掛ける日本のメーカーとしては最も古い歴史(2019年現在創業112年)を持ち、初の国産エンジンを開発する目的で大阪高等工業学校(後の大阪帝国大学工学部、現大阪大学工学部の前身)の研究者を中心に、1907年に「発動機製造株式会社」として創立された。ブランド名・社名は、創業後、社名に「発動機」を冠する後発メーカーがいくつも出現し、既に出回っている「発動機製造」の発動機をどこで造った発動機か認識するため顧客の方で「阪の動機」と区別呼びし、やがて詰めて「大発(だいはつ)」と略称したことに由来する。

親会社でありトヨタグループの中核企業であるトヨタ自動車は三井グループに属しているが[2]、ダイハツ工業は三和グループに属し三水会みどり会に加盟している[2][3]

エンブレムは以前は「大阪城」のイラストを模したものを使用していた。またこれとは別で、店舗看板やテレビ番組協賛の提供クレジット用に「ダイハツ」に楕円形の囲みをしたロゴもあった。現在の「D」を模したマーク(社章)は1966年に登場し、数回の修正を経ながら現在まで使用され続けている。1998年まで車台にエンブレムが搭載されることは少なかったが、同年2月のロゴリニューアルに伴い多用されるようになった。

歴史

ダイハツ・ミゼットDSA。1950年代後半に隆盛を極めた軽オート三輪。
ダイハツ・コンパーノベルリーナ

設立年の1907年、日本で最初の国産エンジンである「6馬力 吸入ガス発動機」を発明。その当初は工場等の定置動力用として用いられるガス燃料内燃機関(ガス発動機)や鉄道車両用機器の製造を手掛けていた。

1919年に純国産エンジンで軍用自動車を試作し、1930年には自社製小型4サイクル空冷単気筒サイドバルブ(SV)のガソリンエンジンを搭載した試作型オート三輪「ダイハツ號(号)HA型」の開発で本格的に自動車業界に参入[4]。創立50周年となる1957年にミゼットで国内や東南アジアで大ヒットを記録し、1972年まで東洋工業(現マツダ)とともにオート三輪業界の覇権を争った。

1951年に「大阪発動機」から現在の「ダイハツ工業」へと社名を変更した。

四輪市場には1963年コンパーノから参入。しかし当時四輪車への新規参入には通産省(現在の経済産業省)が難色を示していたため、スムーズな参入が出来なかった。また堅実な社風であったため、派手にアピールする手法も取らず、地味な印象となり、すでに評価を得ている先行メーカーに割って入って新規顧客を獲得するのは容易ではなかった[5]

同じころ自動車業界は再編の波が吹き荒れており、ダイハツにも三和銀行によってトヨタ自販・トヨタ自工との提携話が持ち出され、1967年11月に両社は業務提携に至った。この時の提携は同時期にトヨタ傘下入りした日野に比べると対等な関係で、それぞれの経営に自主性を持って運営していくと声明文が出された[6][注釈 1]。またこの翌年ダイハツ自動車販売株式会社が設立されている。1966年までは鉄道車輌用の原動機、変速機および駆動装置も製造していた(ダイハツディーゼルとして分社化)。

トヨタとの提携後はパブリカをベースとしたコンソルテトヨタ・カローラをベースとしたシャルマンを生産し、四輪生産のノウハウとブランド力を蓄積していった。

1977年には満を持してダイハツ独自開発のコンパクトカーであるシャレードを投入。それまで振動の問題などから国内外のメーカーから敬遠されていた4ストローク直列3気筒ガソリンエンジンを採用し、軽自動車程度の価格に見合わぬ高い燃費・動力性能でカーオブザイヤーを受賞、ダイハツの四輪車は名実ともに大躍進を遂げた。

1980年になると、現在まで続く軽自動車のミラシリーズが登場。ここにアルト擁するスズキとの軽自動車戦争が勃発した。

1981年にダイハツ自動車販売はダイハツ工業と合併。1995年には同じトヨタ傘下の日野自動車と商品相互供給に関する基本契約の締結を発表、以降現在まで部品の取引を行っている。

1998年にはトヨタが株式を51.2%取得し、トヨタの連結子会社となった。

1995年登場のムーヴシリーズ、2003年登場のタントシリーズなどが大ヒットを記録したことで、2006年度(2006年4月から2007年3月までの一年間)には軽自動車総販売台数で30年以上連続1位であったスズキの牙城を崩し、ついにダイハツがトップに立った[7]。その後2017年まで11年間連続で首位の座を守り続けている[8]。また軽トラック市場もハイゼットなどを主力に、スズキとシェアトップを奪い合っている[9]

2009年からは軽自動車生産から撤退したスバルにも軽自動車・軽福祉車のOEM供給を開始。2016年度の国内販売台数は57万台だが、これに加えてトヨタ・スバルへのOEM供給・受託生産が25.5万台あり、軽自動車メーカーとしてのみならずトヨタグループの重要な生産拠点としての役割も大きい。

2016年にトヨタがダイハツの株式を100%取得し、完全子会社となった。これ以降ダイハツはトヨタグループにおいて軽自動車を含む小型車部門としての立場を明確にし、新興国向け戦略の一翼を担うことになる。

技術力・開発思想

Bピラーレスにより乗降性を向上させたタント
ムーヴカスタム
コペンローブ
ロッキー

低価格・高機能・安全性を同時実現することの難しい小型車生産の分野に特化しており、長らくトヨタから小型車・小型エンジンの開発・生産・OEM供給を委託されてきた。デュエット、およびキャミスパーキーパッソパッソセッテ、2代目bBラッシュルーミー/タンクライズといった車種のほか、ヤリスなどに搭載された1KR-FE型エンジン、初代後期型プロボックスなどに搭載された1NR-FE型エンジンはその代表である[10][注釈 2]

開発思想は親会社のトヨタに近く、使い勝手と品質に優れたクセのない車が多い[注釈 3]。オーソドックスな軽セダンだか経済性とコストパフォーマンスに優れたミライースや居住空間や乗降性に優れたタント、およびムーヴはその代表である。これらをベースにした福祉車両や軽トラックも評価が高く、軽福祉車両市場においてダイハツが50%を占めるに至っている[11]

一方で技術的な分野では、親会社のトヨタと違う独自のものが多い。代表的なものとしては、ハイブリッドではなく内燃機関・シャーシの改良によって低燃費を実現する『イース(eS)テクノロジー』にこだわっているところが挙げられる。エンジンは90年代後半から採用され始めた『TOPAZ(TOP from A to Z)』と名付けられたシリーズで、低圧縮比による低燃費だけでなく、独自の触媒早期活性化システムとインテリジェント触媒により、貴金属の使用量を大幅に削減しながら長期使用でも安定した低排出ガスを実現している[注釈 4]。同様にトヨタがD-4系の直噴技術を発展させているのに対し、ダイハツはポート噴射にこだわる姿勢を見せており[注釈 5][12]、1KRエンジンには直噴と同じ効果をポート噴射で低コストで実現している[13]衝突被害軽減ブレーキなどの運転支援システムに関してもトヨタに頼らず、『スマートアシスト』と呼ばれる技術を独自に開発している。さらにはトランスミッションについても、トヨタが子会社のアイシン・エイ・ダブリュと共同開発しているのに対してダイハツは内製に徹している。2019年にはトヨタ・アイシンが発進用にギアを装着したCVTを開発する一方、ダイハツはギアを高速側に採用し動力分割機構も搭載した『D-CVT』を発表している[14]。 プラットフォームでは、トヨタの新世代コモンアーキテクチャー戦略TNGAに準じた、独自開発の新世代プラットフォーム「DNGA」(「GA-Aプラットフォーム」のみこれに該当する)の開発を行っており、2019年7月には4代目タント(および、そのOEMとなる2代目スバル・シフォン)に先行採用された。

ハイブリット車については、かつてハイゼット(10代目カーゴ)に導入していたが、高価や燃費などを理由とした販売不振のためトヨタからのOEM供給を除きHVの開発から一時全面撤退していた。当時のミライースの当時の広報でも「HV/EVは万人の手に届くモノではない」「エコカーはみんなが買えなければ意味がない」と言った旨の文が掲載されていた他、他社で導入されているマイルドハイブリッドすら全く導入しない程ハイブリット車の開発に否定的な姿勢を見せていた。しかしその後、日本政府「来るべき地球全体のカーボンニュートラル化」を前提に2035年までを目途に国内の新車販売からガソリン車・ディーゼル車などといった100%内燃機関だけで走る自動車を排除する方針を発表したため、ハイブリットの開発拒否の姿勢を断念せざるを得なくなり、2021年1月21日に10年ぶりにハイブリット車の開発に再参入することが発表された[15]

以前は逆にモーター駆動の開発に熱心で、電気自動車(EV)の開発を1965年に始めていた。1966年にはやくもコンパーノバンをベースとしたEV試作車を発表、1968年にはハイゼットバンをベースとしたハイゼットEVの販売を開始、以後電動ゴルフカートやDBC-1、ハローラガーEVなどさまざまな車種を発表、販売している。公道走行可能なEVで2000台近く、遊園地などの構内専用車種を含めると8000台を超える販売実績がある。2005年には軽初となるハイブリッドのハイゼットカーゴを発売したり、2012年にはハイゼットEVの実証実験車が発表されている。なお将来的にゼロ・エミッション法の世界的広がりにより販売が必須となることが予想されるEVに関しても、「トヨタには頼らない」としていた[16]

ディーゼルエンジン開発にも早くから取り組み、特に小型ディーゼルエンジン技術で実績を残している。1960年代初頭に小型トラック用としてはクラス初のディーゼルエンジンを採用すると、1983年にはシャレードで当時世界最小排気量となる1リッター3気筒の乗用ディーゼルエンジン(CL型)を開発。これが1リッター36.54kmという驚異の燃費で世界記録を樹立し、ギネスブックにも記載された[注釈 6]。2003年の東京モーターショーでも660ccの2ストロークディーゼルエンジンが出展されたものの、こちらは市販化には至っていない。過去には船舶用の低速大型ディーゼル機関も生産しており、太平洋戦争後の1950年代以降は、国鉄のディーゼル機関車気動車向けディーゼル機関生産に、先発の新潟鐵工所神鋼造機と共に携わった。これら船舶用ディーゼルエンジンは1966年(昭和41年)に分社された系列の「ダイハツディーゼル」に移管して製造されているが、ランドクルーザープラドなど自動車のディーゼルエンジンの受託生産は今もダイハツ工業が行っている。

1970年代にスズキ4ストロークエンジンを供給していたことがある。当時の排ガス規制に対応できず困っていたスズキはトヨタを頼り、トヨタは系列会社となっていたダイハツにAB型エンジンの供給を要請、これが実現した[17]。同様にシャレードに搭載され高い評価を受けていた3気筒CBエンジンを、1982年から93年までイタリアのイノチェンティ・ミニ社に供給していた。

日本で初めて水平対向エンジンの乗用車を作ったメーカーでもある。1951年発売の三輪車のBeeがそれで、駆動形式はRR、リアサスペンションは独立懸架式という当時としては先進的なものだった。この他軽自動車に四輪独立懸架を積極的に導入したり、660ccの4気筒エンジンであるJBエンジン、「軽のGTカー」とも呼べるソニカや対国内ラリー特化型兵器ストーリアX4を開発したりするなど、現在の堅実な車作りとは裏腹に挑戦的なパッケージングで自動車を売っていた頃もあった。

その機械加工能力の水準を買われ、1920年代以来、国鉄(当初は鉄道省)との関わりも深く、鉄道向け機器としては蒸気機関車用の給水加熱器や自動給炭機(国鉄・汽車製造との共同開発)、客車室内の引き戸ドアチェック通勤電車自動ドア向けドアエンジンなどを製造した。このため、鉄道用空気ブレーキ装置の大手メーカーである日本エヤーブレーキ(現・ナブテスコ)の設立にも関わっている。

他のメーカーの車種で広く採用されているドアミラーウインカーについては、ダイハツも一時期多くの車種に導入していたが、現在はカスタム系など一部車種のみの導入に留め、大半の車種でサイドターンランプを採用している。これは軽自動車の車種で部品を共通化させてコストを縮減させるためやドアミラーが破損した時の修理費用が高くなることを防ぐためである[18]

モータースポーツ

シャレードのラリーカー
ブーンのラリーカー
ミゼットIIカーゴをベースに電気自動車に改造したEVレーシングカー

1965年にコンパーノ・スパイダーで地方のレースに参加したのがダイハツのモータースポーツデビューとなる。このときP-1、P-2と異なる仕様のコンパーノが同時期に登場していた。 1966年にダイハツはコンパーノ・ベルリーナの1.0リッターエンジンを1.3リッターDOHC16バルブ化した「R92A」型エンジンを、プロトタイプレーシングカーのP-3に搭載して第三回日本グランプリにデビュー。ライバルのロータス・エリートアバルトシムカを破ってGP-Iクラスで優勝を収めた。このP-3は「ピー子ちゃん」という愛称で親しまれた。翌年の第四回では同クラスに、風洞実験で開発したFRPボディ&ミッドシップエンジンのP-5を2台投入。しかしメカニカルトラブルで予選を走れず、決勝に進むことができなかった[19]第五回ではP-5の4台体制を敷き、総合10位でクラス優勝を再び取り戻した。続く鈴鹿1000kmでは、トヨタ・7ポルシェ・906に次ぐ総合3位フィニッシュを果たしている。1969年の第六回に向けてもフェロー7を公開していたものの結局参戦せず、6月の富士1000kmを最後にチームは解散。ダイハツはサーキットの大舞台から姿を消した。なおトヨタ・7の開発にはダイハツの風洞施設が用いられている他、幻の5.0リッターターボの開発にもダイハツが参加していた[20]

WRCには1979年からシャレードラリー・モンテカルロにスポット参戦し、1981年にクラス優勝を挙げた。1984年からはサファリラリーに参戦。シャレードは多数のクラス優勝をする活躍を見せ、1993年には排気量で1L上回るグループAマシン(スバル・インプレッサ三菱・ランサーエボリューションなど)を押しのけ、総合1~4位のトヨタ・セリカに次ぐ5位〜7位を占めてダイハツのWRC挑戦は幕を下ろした。またシャレードをグループB化し最高クラスに参戦する計画もあり、コンセプトモデルの926Rも発表していたものの、突然のグループB消滅により立ち消えとなっている。

国内ではラリーダートトライアルで活躍。全日本ラリーでは1984年にシャレードで初めてクラスタイトルを獲得した。1990年代にはミラの4WDターボ仕様であるTRXX X4Rを投入し、アルトワークスヴィヴィオと激しく争い、全日本ラリーで3度クラスタイトルを獲得。1998年にストーリアX4が登場すると黄金時代を迎え、全日本ラリー選手権全日本ダートトライアル選手権の両方で2000年〜2005年までクラスタイトルを連覇した。ストーリアX4は後継車のブーンX4が登場した後も、規則で禁止されるまでの2014年まで参戦し続け、2012~2014年に異なったドライバーたちでJN1クラスを3連覇した。後継のブーンX4も2006年にJN2クラスでタイトルを獲得し、2008年のWRC(ラリージャパン)にスポット参戦(1,300ccモデルのみFIA公認車両となっており「X4」は日本国内競技でのみ有効なJAF登録車両なのでFIA主催の国際イベント(WRC)には参戦不可だったため、FFの1,300ccモデルに輸出用MTを組み、登録車名も海外名シリオン/ブーンとして出場)し、N1クラス優勝もしている。このようにダイハツは国内外のモータースポーツに積極的に参戦してきたが、2009年1月13日、「昨今の自動車業界を取り巻く経済状況の厳しい状況」および「(年を追うごとに)深刻化する若年層の車離れなどを理由に、モータースポーツ活動自体からの撤退とDRSの解散、関連会社DCCSが主催するジムカーナ競技会ダイハツチャレンジカップの終了を発表した。

以降はメーカーワークスとしてのモータースポーツ活動は行っていないが、スポーツカスタマイズブランドとしてD-SPORTが存在する。大阪市の独立系自動車部品商社「SPK」の1部門でダイハツ工業と直接の資本関係はないが、東京オートサロンにダイハツ工業が出展する際は毎年ダイハツ工業のブースで車両・商品展示を行うなど深い関係を持っており、全ダイハツディーラーでも唯一商品の取り扱いがある。またかつてダイハツのワークス活動を率いたDRS(ダイハツ・レーシング・サービス)の名を冠する競技向けパーツの販売も行っている。また元々のDRSの母体であったDCCSは現在も長野県佐久市に存在する。

コマーシャル戦略

JR新大阪駅在来線コンコース内展示スペース

オート三輪業界でもいち早く、太平洋戦争直後の1940年代末期から大量生産システムの本格導入に取り組むと共に、日本全国へのディーラー網整備を早期に完了し、小型商用車市場に地歩を築いた存在である。

自動車業界では、テレビコマーシャルの活用の先駆的存在でもあった。1957年に発売した軽オート三輪「ミゼット」は、小型軽便な実用性と廉価さを武器に「街のヘリコプター」のキャッチフレーズで売り出されたが、相前後してダイハツは、大阪の大阪テレビ放送(現・ABCテレビ)で製作され1958年から放送されて高い視聴率を誇った喜劇テレビドラマやりくりアパート』のスポンサーとなり、ミゼットの売り込みをかけた。番組の最後には主演のコメディアン大村崑佐々十郎らが実車のミゼットを横に、コミカルなギャグ混じりに「ミゼット!」と車名を連呼するインパクトたっぷりの生コマーシャルが放送され、ミゼットはこのCM効果も手伝って当時の大ヒット作となっている。

地元であるJR新大阪駅の在来線コンコース、及び和歌山駅には常設のダイハツ車の展示スペースがあり[注釈 7]、新型モデルが時折入れ替わりをしながら1台展示されている(ちなみに、マツダも地元広島県JR広島駅のコンコースに常設の展示スペースがある)。

海外事業

インドネシアではアストラ・インターナショナルとの合弁で「アストラ・ダイハツ・モーター」 (ADM) を設立。ダイハツ車の販売と、ジャカルタ・スンター工場にてダイハツおよびトヨタブランド車の製造を行っている。スンター工場は2010年度には生産能力を年30万台に引き上げた[21]

マレーシアでは1993年に現地資本との合弁でマレーシア第二のメーカーのプロドゥアを設立。2006年には第一のマレーシアの自動車メーカープロトンと親会社のトヨタを抜いてマレーシア市場最大手に踊り出ている。1995年にはマレーシア政府がゼブラを国民車に指定した。またインドネシアでも、トヨタとの姉妹車販売によりホンダと2位争いを展開している[22]

一方、その他の地域においては販売不振による撤退が目立つ。1989年には当時、小型車市場が拡張の傾向にあったアメリカ市場への参入を1959年トライモービル(日本名・ミゼットMP)の現地への800台限定投入以来、30年ぶりに試みたが、親会社のトヨタの知名度が強すぎたせいか米国内でのダイハツの知名度が低く、ディーラー網の整備にてこずったことなどから売れ行きが伸びなかったため、1992年をもって撤退した。また、2006年3月には韓国車との競合などでやはり不振を極めていたオーストラリア市場からの撤退を、2007年11月にはベトナムの現地合弁会社ベトインド・ダイハツ(ビンダコ)の清算および同国市場からの撤退を発表している。さらに2011年1月にはヨーロッパ市場からの撤退も発表した[23]

中華人民共和国ではこれまでシャレードテリオスなどダイハツの車種が現地生産されていたものの、ダイハツブランドでの販売は行われていなかった。2007年、第一汽車子会社の一汽吉林汽車との合弁でセニアの生産・販売を行いダイハツブランドの展開を開始したが、知名度不足から販売が低迷したため2009年には早くも展開を断念し、同年中に一汽ブランドへ変更することを発表した。しかしながら、双方のメンツを重んじ、対外的には「技術援助契約の枠組の変更」という表現が取られている。主な要因は、

  1. 既存の吉汽ブランドは小型商用車を主に販売し、乗用車を拡販するための日本国内ノウハウ移転が定着しなかったこと
  2. 投入したセニアは元々インドネシア市場用に開発された車両であり、モータリゼーションでは先を進んでいた中国市場のユーザーの嗜好(特に見栄を重んじる)に適合しなかったこと
  3. コスト抑制のため中国国内での部品調達を試み、調達部門を先頭に現地メーカーの指導がなされたが、目標とする品質を達成することができず、吉汽側にも改善の意欲がなく、「ダイハツ」ブランドを名乗り続けることが困難との判断がなされたこと

と考えられている[24]

トヨタの完全子会社となった後はトヨタと合同で仮想カンパニー「新興国小型車カンパニー」を設立、トヨタグループの先兵としてアジア展開の強化に努めることとなる。

沿革

車種一覧

生産拠点

※2021年1月現在

関連企業

コーポレーションスローガン

  • 「ワールドミニで未来を創る!」(1987年1月〜1998年9月)
  • 「それ、ダイハツがやります。」(1996年4月〜1998年6月)
  • 「We Do Compact」(1997年4月〜2005年12月)
  • 「テーマは、品質。」(1998年10月〜2000年9月)
  • 「ひとりひとりを楽しくする品質。Goodが、ギュッと。」(2000年10月〜2002年12月)
  • 「ワンダフルスモール」(2003年1月〜2007年2月)
  • 「Innovation for Tomorrow」(2007年3月 - 2017年2月[注釈 10]
  • 「もっと軽にできること。」(2011年9月 - 2017年4月、軽自動車専用のスローガン)
  • 「軽の技術で、コンパクトを変えていく。」(2016年4月 -、小型自動車専用のスローガンだったが、2017年5月からは軽自動車でも使用されるようになった。)
  • 「Light you up 〜らしく、ともに軽やかに〜」(2017年3月 - )

提供番組

現在

過去

日本テレビ系列

TBS系列

フジテレビ系列

テレビ朝日系列

テレビ東京

企業など

事件・不祥事など

出勤停止事件

1971年11月、ダイハツを欠勤して沖縄返還協定阻止のデモに参加した組立工員Xが、凶器準備集合等の嫌疑で現行犯逮捕・勾留された。その後1ヶ月後Xは工場に復帰するが、その間に行われた配置転換でXは余剰人員として扱われており、Xはこれを無視して就労。事情聴取のための労務課の呼び出しも無視し続けたため、ダイハツ側は自宅謹慎を命ずるが、これも無視して出勤したXは警備員と揉み合いになった。その後もXは立ち入りを試みるとともに、会社前でのビラ配りや、工場ゲリラと称する17人を率いて警備員と揉み合うなどし、ダイハツは遂にXを解雇するに至った。Xはこれを不服として裁判所に提訴、1審・2審で訴えを認められたものの、最高裁判所はXの訴えを棄却した[27][28]

「燃える車」

サービス残業

同社が、フレックスタイム制を適用した社員約1,000人に対してサービス残業を行わせていたとして、淀川労働基準監督署から是正勧告を受けていたことが、2009年4月2日に判明した。同社は、フレックス制適用の社員について、社内のパソコンが社内ネットワーク接続している時間を労働時間として計算していたが、同労基署の調査によって、接続を切断した後も業務を続けていた社員が複数に亘って存在していたことが確認された。これを受け同社は、該当社員に対し、未払いの時間外労働手当約5,000万円を支払った[29]

爆発事故

2009年10月10日、滋賀工場で粉塵爆発による火災が発生し1人死亡、2人負傷。

2019年3月14日、中津工場で第1塗装工場で火災が発生し1人負傷。

脚注

注釈

  1. ^ この提携の際トヨタ自工の豊田英二社長は「外資の攻勢に対する防波堤の役を果たしたい」と語っているように、当時売り上げ台数で圧倒的優位に立っていたGM、フォードに対抗するための業務提携だったとされる。特にラインナップ・生産台数を増やすこととそれにともなうコストダウンが重点的に行われた(200万台体制)。
  2. ^ なお近年はプロボックス/サクシードマツダ・ファミリアバンマツダ・ボンゴなどの車両や2700ccガソリンエンジン、4100ccディーゼルエンジンなどの大型なものを受託生産することもある
  3. ^ ダイハツの新車購入者の過半数は女性が占めている
  4. ^ 一方で2014年発売のムーヴでは過剰な燃費競争から降りて、走行性能を追求することを宣言している。(日経トレンディネット ダイハツ・ムーヴ “燃費チキンレース”はもうしない!より)
  5. ^ ただしトヨタ・カムリのOEM車であるアルティス現行型は直噴エンジンである。
  6. ^ この記録はフォルクスワーゲン・ルポ 3L TDIが2001年に登場するまでの10年間破られなかった
  7. ^ 新大阪駅はダイハツ工業本体、和歌山駅は傘下のディーラーである和歌山ダイハツ販売によるもの
  8. ^ テレビCMでの「ダイハツ」日本語ロゴは既に1993年をもち廃止。「DAIHATSU」(旧フォント)は2002年のパイザー生産終了まで継続採用。
  9. ^ 本社は伊丹市に所在。2014年5月1日にビジネスサポートセンターがダイハツテクナーを吸収合併し商号変更。連結子会社間の合併に関するお知らせ[リンク切れ]ダイハツ工業 2014年5月12日閲覧。東京に本社のあるビジネスサポートセンターとの資本・人的関係はない。
  10. ^ 但し、2011年8月以降はパンフレット(カタログ)のみの展開となった。

出典

  1. ^ a b c d e f ダイハツ工業株式会社 第179期決算公告
  2. ^ a b 田中彰、「六大企業集団の無機能化: ポストバブル期における企業間ネットワークのオーガナイジング」『同志社商学』 2013年 64巻 5号 p.330-351, doi:10.14988/pa.2017.0000013201
  3. ^ メンバー会社一覧 - みどり会
  4. ^ ダイハツ号HB型三輪自動車
  5. ^ 松下宏・桂木洋二、2008、『国産乗用車60年の軌跡』1、グランプリ出版 ISBN 978-4-87687-303-6 pp. pp.64-65
  6. ^ トヨタ自動車75年史 第五項 ダイハツとの業務提携
  7. ^ 社団法人全国軽自動車協会連合会の該当ページ[リンク切れ]
  8. ^ ダイハツが11年連続で軽自動車シェアNo.1の理由 ニューズウィーク日本版
  9. ^ JAMA
  10. ^ DAIHATSU公式HP 受託・OEM事業
  11. ^ 【自動車メーカー福祉車両開発インタビュー】ダイハツ工業株式会社 より低価格・高機能 軽の福祉車両で実現[PR]
  12. ^ ダイハツが主力小型車を直噴化しない理由ニュースイッチ
  13. ^ 「疑似直噴」で高圧縮比、ダイハツ1L自然吸気エンジン日系XTECH 2016年6月7日
  14. ^ トランスミッションに新発想「ベルト+ギヤ駆動」のパワースプリット! ダイハツのDNGA新技術 D-CVT Motor fan 2019年6月6日
  15. ^ 『北日本新聞』2021年1月22日付9面『ダイハツ HVに再参入』より。
  16. ^ ダイハツ新社長「EVはトヨタに頼らない」
  17. ^ トヨタとダイハツ提携の歴史にはスズキとの関わりもあった
  18. ^ 「ドアミラーにウインカー」のメリットとは 高級車から大衆車へ普及 流れに逆行するメーカーも?内『「ドアミラーをぶつけたときの費用が…」で不採用に?』(乗りものニュース)メディア・ヴァーグ、2018年8月16日更新、2021年1月6日閲覧)
  19. ^ 第270回・ダイハツのPシリーズ 車屋四六のGood Days&Good Cars
  20. ^ ベストカー 12月26日号 194-196ページ『蘇ったDAIHATSU P5』 平成30年12月26日 講談社刊
  21. ^ ダイハツ、インドネシアの生産能力を年30万台に引き上げ”. 日刊工業新聞 (2010年1月13日). 2011年1月15日閲覧。[リンク切れ]
  22. ^ 【藤井真治のフォーカス・オン】トヨタ上まわる影の主役、東南アジアでダイハツ快進撃の理由 2018年3月23日
  23. ^ ダイハツ、欧州市場での新車販売を終了…2013年に”. Response. (2011年1月14日). 2011年1月15日閲覧。
  24. ^ ダイハツ、中国事業を縮小 自社ブランド展開断念”. 日本経済新聞 (2009年7月18日). 2009年7月18日閲覧。
  25. ^ 朝日新聞1998年8月29日朝刊
  26. ^ トヨタ自動車とダイハツ工業、両ブランドで小型車事業強化 -ダイハツ工業を完全子会社化、グローバル戦略一本化-”. トヨタ自動車株式会社、ダイハツ工業株式会社 (2016年1月29日). 2016年1月29日閲覧。
  27. ^ 村岡社会保険労務士事務所 ダイハツ工業事件
  28. ^ 女性就労支援バックアップナビ ダイハツ工業出勤停止。懲戒解雇等事件(パワハラ)
  29. ^ ダイハツがサービス残業 是正勧告受け5000万円支払う[リンク切れ] Archived 2009年4月3日, at the Wayback Machine. 産経新聞 2009年4月4日

関連項目

外部リンク