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'''ゴール朝'''(<!--ごーるちょう-->[[ペルシア語]] : '''&#1594;&#1608;&#1585;&#1610;&#1575;&#1606;''' Gh&#363;r&#299;y&#257;n)は、現在の[[アフガニスタン]]に興り、[[北インド]]に侵攻して[[インド]]における[[ムスリム]]の最初の安定支配を築いた[[イスラム王朝]]([[11世紀]]初め頃 - [[1215年]])。グール朝とも表記し、王家はシャンサブ家という。
'''ゴール朝'''(<!--ごーるちょう-->{{翻字併記|fa|دودمان غوریان|{{transl|fa|Dudmân-e Ğurīyân}}}}))は、現在の[[アフガニスタン]]に興り、[[北インド]]に侵攻して[[インド]]における[[ムスリム]]の最初の安定支配を築いた[[イスラム王朝]]([[11世紀]]初め頃 - [[1215年]])。グール朝、シャンサバーニー朝とも表記し、王家はシャンサブ家({{翻字併記|fa|شنسبانی|{{transl|fa|Šansabānī}}}})という。


== 概要 ==
== 概要 ==
=== ゴール朝の先祖 ===
=== ゴール朝の先祖 ===
シャンサブ家を首長とするシャンサバーニー族は、現在のアフガニスタン中部、[[ハリー・ルード川]]上流にあたる[[ヘラート]]の東の山岳地帯[[ゴール州|ゴール地方]](グール、マンデーシュとも)に居住し[[イラン語群|イラン系の言語]]を話していた人々で、地名からゴール人あるいはグール人と呼ばれたため、王朝の名が起こった。王統の起源については詳しいことは不明であるが、ゴール朝滅亡後にまとめられた年代記によると、その先祖は第4代[[正統カリフ]]、[[アリー・イブンアビーターリブ|アリー]]の時代に[[イスラム教]]に帰依し、バンジー・シャンサバーニーのとき、[[アッバース朝]]の[[ハールーン・アッ=ラシード]]によってゴール地方の領主に定められたという。
シャンサブ家を首長とするシャンサバーニー族は、現在のアフガニスタン中部、[[ハリー川]]上流にあたる[[ヘラート]]の東の山岳地帯[[ゴール州|ゴール地方]](グール、マンデーシュとも)に居住し[[イラン語群|イラン系の言語]]を話していた人々で、地名からゴール人あるいはグール人と呼ばれたため、王朝の名が起こった。王統の起源については詳しいことは不明であるが、ゴール朝滅亡後にまとめられた年代記によると、その先祖は第4代[[正統カリフ]]、[[アリー・イブンアビーターリブ|アリー]]の時代に[[イスラム教]]に帰依し、バンジー・シャンサバーニーのとき、[[アッバース朝]]の[[ハールーン・アッ=ラシード]]によってゴール地方の領主に定められたという。


確実なところでは11世紀初頭頃に歴史上にあらわれ、[[ガズナ朝]]の英主[[マフムード (ガズナ朝)|マフムード]]の遠征を受けてガズナ朝に服属した。その後、ガズナ朝衰退後の11世紀末にガズナ朝と[[セルジューク朝]]との緩衝地帯になったことから自立し、[[1099年]]に独立を認められたが、[[1108年]]にはアフガニスタン北西部から[[イラン]]にかけての[[ホラーサーン]]に拠るセルジューク朝の[[サンジャル]]による支配を受け、セルジューク朝に服属した。
確実なところでは11世紀初頭頃に歴史上にあらわれ、[[ガズナ朝]]の英主[[マフムード (ガズナ朝)|マフムード]]の遠征を受けてガズナ朝に服属した。その後、ガズナ朝衰退後の11世紀末にガズナ朝と[[セルジューク朝]]との緩衝地帯になったことから自立し、[[1099年]]に独立を認められたが、[[1108年]]にはアフガニスタン北西部から[[イラン]]にかけての[[ホラーサーン]]に拠るセルジューク朝の[[サンジャル]]による支配を受け、セルジューク朝に服属した。


=== 勃興 ===
ゴールの地方勢力であった頃のゴール朝は、シャンサバーニー族の[[部族制]]国家の性格が強く王朝内部の争いがしばしば起こったが、[[12世紀]]には、王家の一員クトゥブッディーンが兄弟たちの争いから[[ガズナ]]の宮廷に逃れたところ毒殺される事件があった。また、この事件の後には、ゴール朝のサイフッディーンは一時ガズナを占領したもののガズナ朝を支持する民衆たちの反感からまもなく捕虜となって処刑され、ゴール朝とガズナ朝は対立を深めた。
ゴールの地方勢力であった頃のゴール朝は、シャンサバーニー族の[[部族制]]国家の性格が強く王朝内部の争いがしばしば起こったが、[[12世紀]]には、王家の一員クトゥブッディーンが兄弟たちの争いから[[ガズナ]]の宮廷に逃れたところ毒殺される事件があった。また、この事件の後には、ゴール朝のサイフッディーンは一時ガズナを占領したもののガズナ朝を支持する民衆たちの反感からまもなく捕虜となって処刑され、ゴール朝とガズナ朝は対立を深めた。


=== アラーウッディーンの勃興 ===
1150年に至り、ゴール朝のアラーウッディーンは、[[カンダハール]]付近の戦いで、ガズナ朝のバフラーム・シャーに大勝した。この戦いで、歩兵を中心としたゴール軍は、防御用の盾を連ねて堅固な陣地を築いてガズナ軍の[[戦象]]隊を食い止め、攻撃の決定力をもたないガズナ軍をさんざんに打ち破り、ガズナを最終的に奪ってガズナ朝をホラーサーン・アフガニスタンからインド方面へと追った。ガズナへ入城したゴール軍は積年の恨みを晴らさんばかりに略奪、蹂躙の限りを尽くし、ガズナの歴代スルタンの遺骸まで掘り出して焼いたという。これによってゴール朝は、[[カーブル]]からガズナまで現在のアフガニスタン東部を広く支配することとなり、自立、発展の基礎を築いた。ゴール朝の君主はそれまで[[マリク]]あるいは[[アミール]]と称していたが、こののち[[スルタン]]を称するようになり、儀礼用の日傘を用いるようになった。
1150年に至り、ゴール朝の{{仮リンク|アラーウッディーン・フサイン2世|fr|Ala ad-Din Husayn (Ghurî)}}(ʿAlāʾ-ud-Dīn Ḥusayn II)は、[[カンダハール]]付近の戦いで、ガズナ朝の{{仮リンク|バフラーム・シャー|en|Bahram-Shah of Ghazna}}に大勝した。この戦いで、歩兵を中心としたゴール軍は、防御用の盾を連ねて堅固な陣地を築いてガズナ軍の[[戦象]]隊を食い止め、攻撃の決定力をもたないガズナ軍をさんざんに打ち破り、ガズナを最終的に奪ってガズナ朝をホラーサーン・アフガニスタンからインド方面へと追った。ガズナへ入城したゴール軍は積年の恨みを晴らさんばかりに略奪、蹂躙の限りを尽くし、ガズナの歴代スルタンの遺骸まで掘り出して焼いたという。これによってゴール朝は、[[カーブル]]からガズナまで現在のアフガニスタン東部を広く支配することとなり、自立、発展の基礎を築いた。ゴール朝の君主はそれまで[[マリク]]あるいは[[アミール]]と称していたが、こののち[[スルタン]]を称するようになり、儀礼用の日傘を用いるようになった。


[[1152年]]、ゴール朝はセルジューク朝への貢納を停止し公然とこれに宣戦したが、[[テュルク]]系の兵力がセルジューク朝側に降ったため惨敗し、アラーウッディーンは捕虜になった。しかし、まもなくセルジューク朝のサンジャルが[[トゥルクマーン]]遊牧民([[オグズ]])との戦いで捕虜となったことをきっかけにセルジューク朝のホラーサーン政権は無力化し、西のホラーサーンが政治的空白地帯になったため、ゴール朝は急速な勢力拡大に向かう。
[[1152年]]、ゴール朝はセルジューク朝への貢納を停止し公然とこれに宣戦したが、[[テュルク]]系の兵力がセルジューク朝側に降ったため惨敗し、アラーウッディーンは捕虜になった。しかし、まもなくセルジューク朝の[[アフマド・サンジャル|サンジャル]]が[[トゥルクマーン]]遊牧民([[オグズ]])との戦いで捕虜となったことをきっかけにセルジューク朝のホラーサーン政権は無力化し、西のホラーサーンが政治的空白地帯になったため、ゴール朝は急速な勢力拡大に向かう。


アラーウッディーンは、シャンサブ王家の王族の間で領域を三分割支配する体制を築き、ゴール地方の{{仮リンク|フィールズクーフ|en|Firozkoh}}<ref>後に[[ジャームのミナレット]]が建てられた場所と推定されている。</ref>を宗家が支配し、ガズナと[[バーミヤーン]](Bamiyan Branch)をそれぞれ分家が支配するようになった。バーミーヤンのゴール朝は西方に勢力を伸ばして[[アム川]]流域にいたる地方を支配し、ガズナの分家がインド支配を企てることになる。
=== 最盛期 ===
アラーウッディーンは、シャンサブ王家の王族の間で領域を三分割支配する体制を築き、ゴール地方の[[フィールズクーフ]]を宗家が支配し、ガズナと[[バーミヤーン]]をそれぞれ分家が支配するようになった。バーミーヤンのゴール朝は西方に勢力を伸ばして[[アム川]]流域にいたる地方を支配し、ガズナの分家がインド支配を企てることになる。


=== 最盛期 ===
アラーウッディーンの死後、王位を奪手中に収めた甥の[[ギヤースッディーン]]がゴールを支配し、弟の[[シハーブッディーン・ムハンマド|シハーブッディーン]](ムイッズッディーン、ムハンマド・ゴーリーとも)がガズナを支配した12世紀後半から[[13世紀]]初頭に、ゴール朝は最盛期を迎えた。
アラーウッディーンの死後、王位を奪手中に収めた甥の[[ギヤースッディーン・ムハンマド]]がゴールを支配し、弟の[[シハーブッディーン・ムハンマド|シハーブッディーン]](ムイッズッディーン・ムハンマド、ムハンマド・ゴーリーとも)がガズナを支配した12世紀後半から[[13世紀]]初頭に、ゴール朝は最盛期を迎えた。


兄弟は連携して領域を拡大し、ギヤースッディーンは弟と協力して[[1186年]]に[[ラホール]]にいたガズナ朝を滅ぼした。北では、[[1190年]]に[[ホラズム]]からホラーサーンに支配を広げつつあった[[ホラズム・シャー朝]]を破ってその君主を捕虜とし、[[1198年]]には[[西遼|カラキタイ]](西遼)の侵入を撃退した。こうして[[1200年]]には、ホラーサーンの大半を支配することに成功し、[[ニーシャープール]]にホラーサーン総督を置いた。
兄弟は連携して領域を拡大し、ギヤースッディーンは弟と協力して[[1186年]]に[[ラホール]]にいたガズナ朝を滅ぼした。北では、[[1190年]]に[[ホラズム]]からホラーサーンに支配を広げつつあった[[ホラズム・シャー朝]]を破ってその君主を捕虜とし、[[1198年]]には[[西遼|カラキタイ]](西遼)の侵入を撃退した。こうして[[1200年]]には、ホラーサーンの大半を支配することに成功し、[[ニーシャープール]]にホラーサーン総督を置いた。
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一方、弟のシハーブッディーンはラホールからインド奥深くへと侵攻し、[[1191年]]には[[タラーインの戦い]]で[[ラージプート]]軍を破り、[[ベンガル地方|ベンガル]]まで軍を進めて事実上の[[北インド]]支配を達成した。
一方、弟のシハーブッディーンはラホールからインド奥深くへと侵攻し、[[1191年]]には[[タラーインの戦い]]で[[ラージプート]]軍を破り、[[ベンガル地方|ベンガル]]まで軍を進めて事実上の[[北インド]]支配を達成した。


ゴール朝の国力が絶頂となったギヤースッディーンの治世には、王朝の本拠地ゴールやヘラートで盛んに建設事業が行われた。中でもゴール地方のハリー・ルード川支流のほとりに立つ[[ジャームのミナレット]]は現存し、[[世界遺産]]に登録されている。
ゴール朝の国力が絶頂となったギヤースッディーンの治世には、王朝の本拠地ゴールやヘラートで盛んに建設事業が行われた。中でもゴール地方の[[ハリー川]]支流のほとりに立つ[[ジャームのミナレット]]は現存し、[[世界遺産]]に登録されている。


=== ゴールの支流とデリー・スルターン朝の成立 ===
=== 滅亡 ===
[[1203年]]、ギヤースッディーンが病没すると弟のシハーブッディーンがその後を継いで西方経営に力を注いだが、ホラズム・シャーとカラキタイに敗れ、ラートを除くホラーサーンのほとんど全土を失った。
[[1203年]]、ギヤースッディーンが病没すると弟のシハーブッディーンがその後を継いで西方経営に力を注いだが、ホラズム・シャーとカラキタイに敗れ、ラートを除くホラーサーンのほとんど全土を失った。


シハーブッディーンが[[1206年]]のインド遠征の帰途に陣没するとギヤースッディーンの息子である[[ギヤースッディーン・マフムード]]が王位を継が、支配下のゴール人や[[パシュトゥーン人|アフガン人]]の歩兵軍団と、テュルク系の[[奴隷]]身分出身の[[マムルーク]]騎兵軍団が互いに後継者を擁立してを繰り返しためゴル朝は急速に解体に向かい、[[1215年]]に最後君主・[[アラー・アッディーン・ムハ4世]]がホラズム・シャー朝の君主・[[アラウッムハマド]]によって廃され、ル朝は滅亡した
[[1206年]]にシハーブッディーンがインド遠征の帰途に陣没するとギヤースッディーンの息子である[[ギヤースッディーン・マフムード]]が王位を継いだが、支配下のゴール人や[[パシュトゥーン人|アフガン人]]の歩兵軍団と、テュルク系の[[奴隷]]身分出身の[[マムルーク]]騎兵軍団がそれぞれ後継者を擁立した。北インドに残されていたマムル将軍・[[クトゥブッディーン・アイバク]]は自立してインドに[[奴隷王朝]]を開いた。これ以降、[[デリ]]を中心に[[ー・スルター]]と総称されるムスリムの王朝が5代続きそのもとでインドのイスラム化が進んだ


[[1210年]]にギヤースッディーン・マフムードが暗殺されると、息子{{仮リンク|バハー・ウッディーン・サーム3 世|en|Baha al-Din Sam III }}が擁立されたが、これ以降、バーミヤーンの支流と互いに争いを繰り返したためゴール朝は急速に解体に向かった。
シハーブッディーンが死んだとき、北インドに残されていたマムルークの将軍・[[クトゥブッディーン・アイバク]]は自立してインドに[[奴隷王朝]]を開いた。これ以降、[[デリー]]を中心に[[デリー・スルタン朝]]と総称されるムスリムの王朝が5代続き、そのもとでインドのイスラム化が進んだ。

=== 滅亡 ===
[[1215年]]に最後の君主・[[アラー・ウッディーン・ムハンマド4世]]がホラズム・シャー朝の君主・[[アラーウッディーン・ムハンマド]]によって廃され、ゴール朝は滅亡した。

[[1245年]]にギヤースッディーン・ムハンマドの封臣の一族であるクルト家の[[マリク・シャムス・ウッディーン1世|シャムスッディーン・ムハンマド]]は、[[クルト朝]]を[[ホラサーン]]で興した。


== 歴代君主 ==
== 歴代君主 ==
#[[イシュズ・ウッディーン・フサイン1世]](在位:[[1117年]]-[[1146年]])
#[[イシュズッディーン・フサイン1世]](在位:[[1117年]]-[[1146年]])
#[[シャイフ・ウッディーン・スーリー]](在位:1146年-[[1149年]]) - フサイン1世の子
#[[シャイフッディーン・スーリー]](在位:1146年-[[1149年]]) - フサイン1世の子
#[[バハー・ッディーン・サーム1世]](在位:1149年) - フサイン1世の子
#[[バハー・ッディーン・サーム1世]](在位:1149年) - フサイン1世の子
#[[アラー・ッディーン・フサイン2世]](在位:1149年-[[1161年]]) - フサイン1世の子
#{{仮リンク|アラー・ッディーン・フサイン2世|en|Ala al-Din Husayn }}(在位:1149年-[[1161年]]) - フサイン1世の子
#[[シャイフ・ウッディーン・ムハンマド1世]](在位:1161年-[[1163年]]) - フサイン2世の子
#[[シャイフッディーン・ムハンマド1世]](在位:1161年-[[1163年]]) - フサイン2世の子
#[[ギヤースッディーン]]在位:1163年-[[1203年]]) - サーム1世の子
#[[ギヤースッディーン・ムハンマド]](2世)(在位:1163年-[[1203年]]) - サーム1世の子
#[[シハーブッディーン・ムハンマド|シハーブッディーン]]在位:1203年-[[1206年]]) - サーム1世の子
#[[シハーブッディーン・ムハンマド]](3世)(在位:1203年-[[1206年]]) - サーム1世の子
#[[ギヤースッディーン・マフムード]](在位:1206年-[[1210年]]) - ギヤースッディーンの子
#[[ギヤースッディーン・マフムード]](在位:1206年-[[1210年]]) - ギヤースッディーン・ムハンマドの子

#[[バハー・ッディーン・サーム2]](在位:1210年) - マフムードの子
=== ゴールの支流 ===
#[[アラー・ッディーン・アトシーズ]](在位:1210年-[[1214年]]) - フサイン2世の子
#[[アラ・アッディーン・ムハンマド4世]](在位:1214-1215年) - フサイン2世の孫
#[[ギヤッディーン・マフムード]](在位:[[1206]]-[[1212]]
#{{仮リンク|バハー・ッディーン・サーム3|en|Baha al-Din Sam III}}(在位:[[1212]]-[[1213年]]) - マフムードの子
#{{仮リンク|アラー・ッディーン・アトシーズ|ca|Ala al-Din Atsiz}}(在位:[[1213]]-[[1214年]]) - フサイン2世の子
#[[アラー・ウッディーン・ムハンマド4世]](在位:1214年-1215年) - フサイン2世の孫

=== バーミヤーンの支流 ===
#[[:ca:Fakhr al-Din Masud|ファフルッディーン・マスウード]](在位:[[1152年]]-[[1163年]])
#[[:ca:Xams al-Din Muhàmmad|シャムスッディーン・ムハンマド]](在位:[[1163年]]-[[1192年]])
#{{仮リンク|バハー・ウッディーン・サーム2世|en|Baha al-Din Sam II }}(在位:[[1192年]]-[[1206年]])
#[[:en:Jalal al-Din Ali|ジャラールッディーン・アリー]](在位:[[1206年]]-[[1215年]])

== 脚注 ==
<references/>

== 関連項目 ==
* [[ガズナ朝]]
* [[デリー・スルターン朝]]


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[[Category:ゴール朝|*]]
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[[de:Ghuriden]]
[[en:Ghurid Dynasty]]
[[eo:Guridoj]]
[[es:Imperio gúrida]]
[[fa:سلسله غوریان]]
[[fi:Ghuridit]]
[[fr:Ghorides]]
[[hr:Guridsko Carstvo]]
[[hu:Gúridák]]
[[ko:고르 왕조]]
[[lt:Guridų dinastija]]
[[ml:ഗോറി സാമ്രാജ്യം]]
[[nl:Ghowriden]]
[[no:Ghuridene]]
[[ru:Гуриды]]
[[sv:Ghuriderna]]
[[tl:Dinastiyang Gurida]]
[[tr:Gurlular]]
[[ur:سلطنت غوریہ]]
[[zh:古尔王朝]]

2023年5月12日 (金) 09:15時点における最新版

ゴール朝
ガズナ朝 1117年 - 1215年 奴隷王朝
クルト朝
ゴール朝の位置
公用語 ペルシア語
首都 フィールズクーフ英語版ヘラートガズナラホール
君主
1117年 - 1146年 イシュズッディーン・フサイン1世
1149年 - 1161年アラー・ウッディーン・フサイン2世フランス語版
1163年 - 1203年ギヤースッディーン・ムハンマド
1203年 - 1206年シハーブッディーン・ムハンマド
1206年 - 1210年ギヤースッディーン・マフムード
変遷
不明 xxxx年xx月xx日
滅亡1215年
イランの歴史
イランの歴史
イランの歴史
イランの先史時代英語版
原エラム
エラム
ジーロフト文化英語版
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国

ゴール朝ペルシア語: دودمان غوریان, ラテン文字転写: Dudmân-e Ğurīyân))は、現在のアフガニスタンに興り、北インドに侵攻してインドにおけるムスリムの最初の安定支配を築いたイスラーム王朝11世紀初め頃 - 1215年)。グール朝、シャンサバーニー朝とも表記し、王家はシャンサブ家(ペルシア語: شنسبانی, ラテン文字転写: Šansabānī)という。

概要[編集]

ゴール朝の先祖[編集]

シャンサブ家を首長とするシャンサバーニー族は、現在のアフガニスタン中部、ハリー川上流にあたるヘラートの東の山岳地帯ゴール地方(グール、マンデーシュとも)に居住しイラン系の言語を話していた人々で、地名からゴール人あるいはグール人と呼ばれたため、王朝の名が起こった。王統の起源については詳しいことは不明であるが、ゴール朝滅亡後にまとめられた年代記によると、その先祖は第4代正統カリフアリーの時代にイスラム教に帰依し、バンジー・シャンサバーニーのとき、アッバース朝ハールーン・アッ=ラシードによってゴール地方の領主に定められたという。

確実なところでは11世紀初頭頃に歴史上にあらわれ、ガズナ朝の英主マフムードの遠征を受けてガズナ朝に服属した。その後、ガズナ朝衰退後の11世紀末にガズナ朝とセルジューク朝との緩衝地帯になったことから自立し、1099年に独立を認められたが、1108年にはアフガニスタン北西部からイランにかけてのホラーサーンに拠るセルジューク朝のサンジャルによる支配を受け、セルジューク朝に服属した。

ゴールの地方勢力であった頃のゴール朝は、シャンサバーニー族の部族制国家の性格が強く王朝内部の争いがしばしば起こったが、12世紀には、王家の一員クトゥブッディーンが兄弟たちの争いからガズナの宮廷に逃れたところ毒殺される事件があった。また、この事件の後には、ゴール朝のサイフッディーンは一時ガズナを占領したもののガズナ朝を支持する民衆たちの反感からまもなく捕虜となって処刑され、ゴール朝とガズナ朝は対立を深めた。

アラーウッディーンの勃興[編集]

1150年に至り、ゴール朝のアラー・ウッディーン・フサイン2世フランス語版(ʿAlāʾ-ud-Dīn Ḥusayn II)は、カンダハール付近の戦いで、ガズナ朝のバフラーム・シャー英語版に大勝した。この戦いで、歩兵を中心としたゴール軍は、防御用の盾を連ねて堅固な陣地を築いてガズナ軍の戦象隊を食い止め、攻撃の決定力をもたないガズナ軍をさんざんに打ち破り、ガズナを最終的に奪ってガズナ朝をホラーサーン・アフガニスタンからインド方面へと追った。ガズナへ入城したゴール軍は積年の恨みを晴らさんばかりに略奪、蹂躙の限りを尽くし、ガズナの歴代スルタンの遺骸まで掘り出して焼いたという。これによってゴール朝は、カーブルからガズナまで現在のアフガニスタン東部を広く支配することとなり、自立、発展の基礎を築いた。ゴール朝の君主はそれまでマリクあるいはアミールと称していたが、こののちスルタンを称するようになり、儀礼用の日傘を用いるようになった。

1152年、ゴール朝はセルジューク朝への貢納を停止し公然とこれに宣戦したが、テュルク系の兵力がセルジューク朝側に降ったため惨敗し、アラーウッディーンは捕虜になった。しかし、まもなくセルジューク朝のサンジャルトゥルクマーン遊牧民(オグズ)との戦いで捕虜となったことをきっかけにセルジューク朝のホラーサーン政権は無力化し、西のホラーサーンが政治的空白地帯になったため、ゴール朝は急速な勢力拡大に向かう。

アラーウッディーンは、シャンサブ王家の王族の間で領域を三分割支配する体制を築き、ゴール地方のフィールズクーフ英語版[1]を宗家が支配し、ガズナとバーミヤーン(Bamiyan Branch)をそれぞれ分家が支配するようになった。バーミーヤンのゴール朝は西方に勢力を伸ばしてアム川流域にいたる地方を支配し、ガズナの分家がインド支配を企てることになる。

最盛期[編集]

アラーウッディーンの死後、王位を奪手中に収めた甥のギヤースッディーン・ムハンマドがゴールを支配し、弟のシハーブッディーン(ムイッズッディーン・ムハンマド、ムハンマド・ゴーリーとも)がガズナを支配した12世紀後半から13世紀初頭に、ゴール朝は最盛期を迎えた。

兄弟は連携して領域を拡大し、ギヤースッディーンは弟と協力して1186年ラホールにいたガズナ朝を滅ぼした。北では、1190年ホラズムからホラーサーンに支配を広げつつあったホラズム・シャー朝を破ってその君主を捕虜とし、1198年にはカラキタイ(西遼)の侵入を撃退した。こうして1200年には、ホラーサーンの大半を支配することに成功し、ニーシャープールにホラーサーン総督を置いた。

一方、弟のシハーブッディーンはラホールからインド奥深くへと侵攻し、1191年にはタラーインの戦いラージプート軍を破り、ベンガルまで軍を進めて事実上の北インド支配を達成した。

ゴール朝の国力が絶頂となったギヤースッディーンの治世には、王朝の本拠地ゴールやヘラートで盛んに建設事業が行われた。中でもゴール地方のハリー川支流のほとりに立つジャームのミナレットは現存し、世界遺産に登録されている。

ゴールの支流とデリー・スルターン朝の成立[編集]

1203年、ギヤースッディーンが病没すると弟のシハーブッディーンがその後を継いで西方経営に力を注いだが、ホラズム・シャーとカラキタイに敗れ、ヘラートを除くホラーサーンのほとんど全土を失った。

1206年にシハーブッディーンがインド遠征の帰途に陣没すると、ギヤースッディーンの息子であるギヤースッディーン・マフムードが王位を継いだが、支配下のゴール人やアフガン人の歩兵軍団と、テュルク系の奴隷身分出身のマムルーク騎兵軍団がそれぞれ後継者を擁立した。北インドに残されていたマムルークの将軍・クトゥブッディーン・アイバクは自立してインドに奴隷王朝を開いた。これ以降、デリーを中心にデリー・スルターン朝と総称されるムスリムの王朝が5代続き、そのもとでインドのイスラーム化が進んだ。

1210年にギヤースッディーン・マフムードが暗殺されると、息子バハー・ウッディーン・サーム3 世英語版が擁立されたが、これ以降、バーミヤーンの支流と互いに争いを繰り返したためゴール朝は急速に解体に向かった。

滅亡[編集]

1215年に最後の君主・アラー・ウッディーン・ムハンマド4世がホラズム・シャー朝の君主・アラーウッディーン・ムハンマドによって廃され、ゴール朝は滅亡した。

1245年にギヤースッディーン・ムハンマドの封臣の一族であるクルト家のシャムスッディーン・ムハンマドは、クルト朝ホラサーンで興した。

歴代君主[編集]

  1. イシュズッディーン・フサイン1世(在位:1117年1146年
  2. シャイフッディーン・スーリー(在位:1146年-1149年) - フサイン1世の子
  3. バハー・ウッディーン・サーム1世(在位:1149年) - フサイン1世の子
  4. アラー・ウッディーン・フサイン2世英語版(在位:1149年-1161年) - フサイン1世の子
  5. シャイフッディーン・ムハンマド1世(在位:1161年-1163年) - フサイン2世の子
  6. ギヤースッディーン・ムハンマド(2世)(在位:1163年-1203年) - サーム1世の子
  7. シハーブッディーン・ムハンマド(3世)(在位:1203年-1206年) - サーム1世の子
  8. ギヤースッディーン・マフムード(在位:1206年-1210年) - ギヤースッディーン・ムハンマドの子

ゴールの支流[編集]

  1. ギヤースッディーン・マフムード(在位:1206年1212年
  2. バハー・ウッディーン・サーム3世英語版(在位:1212年1213年) - マフムードの子
  3. アラー・ウッディーン・アトシーズカタルーニャ語版(在位:1213年1214年) - フサイン2世の子
  4. アラー・ウッディーン・ムハンマド4世(在位:1214年-1215年) - フサイン2世の孫

バーミヤーンの支流[編集]

  1. ファフルッディーン・マスウード(在位:1152年-1163年
  2. シャムスッディーン・ムハンマド(在位:1163年-1192年
  3. バハー・ウッディーン・サーム2世英語版(在位:1192年-1206年
  4. ジャラールッディーン・アリー(在位:1206年-1215年

脚注[編集]

  1. ^ 後にジャームのミナレットが建てられた場所と推定されている。

関連項目[編集]