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「コンラート1世 (モンフェラート侯)」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2021-04}}
'''コンラート1世'''(Conrad I [[1146年]] [[1192年]][[4月28日]])は、[[モンフェラート]]。[[エルサレム]]王即位直前に[[暗殺教団]]の凶刃に倒れた[[第3回十字軍]]側の英雄の一人。通称は'''コンラド'''。彼の武勇はイスラム側からは、アル・マルキシュの名で恐れられていた。


{{基礎情報 皇族・貴族
== ビザンチンでのコンラド ==
| 人名 = コンラート1世
[[イタリア]]でも名族で知られたモンフェラート侯家の出身であった。[[1179年]]、モンフェラート侯爵と当時の[[東ローマ帝国]]皇帝・[[マヌエル1世コムネノス]]との同盟に基づき、コンラドは軍を率いて出征し、帝国の内乱を鎮圧した。コンラドは智勇兼備の名将であったことから恐れられたが、この頃に東ローマ帝国は次々と皇帝が変わり、[[1185年]]に即位した皇帝[[イサキオス2世アンゲロス]]がとりわけ暗愚なために帝国の内乱は増える一方だった。[[1186年]]の冬、イサキオス2世アンゲロスは彼に自分の義姉テオドアを妻とするよう要請し、このころ東ローマを去って十字軍に加わろうと考えていたコンラドもこれを受け入れた。[[1187年]]春に結婚式がコンスタンティノープルで行われ、このことで家格もその存在も一段と高まった。結婚後すぐさまアレクシオス・ブラナス将軍の反乱の鎮圧に向かい、将軍を殺して反乱を収束させた。
| 各国語表記 = Conrad I
| 家名・爵位 = [[モンフェッラート侯国|モンフェッラート侯]]
| 画像 = Conrad-Picot.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = コンラート1世、[[フランソワ=エドゥアール・ピコ]]画、1843年
| 在位 = [[1191年]] - [[1192年]]
| 続柄 =
| 称号 =
| 全名 =
| 身位 =
| 敬称 =
| 出生日 = [[1146年]]
| 生地 = [[モンフェッラート]]
| 死亡日 = [[1192年]][[4月28日]]
| 没地 = [[アッコン]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = エルサレム女王[[イザベル1世 (エルサレム女王)|イザベル1世]]
| 子女 = [[マリー・ド・モンフェラート|マリーア]]
| 家名 = [[アレラーミチ家]]
| 父親 = [[モンフェッラート侯国|モンフェッラート侯]]グリエルモ5世
| 母親 = ユディト・フォン・エスターライヒ
| 役職 =
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''コンラート1世'''<ref name="Conrad">「コンラート」は[[ドイツ語]]読みであり、[[イタリア語]]では、[[コッラディーノ (人名)|コッラディーノ]](Corradino)と発音される。</ref>(Conrad I, [[1146年]] - [[1192年]][[4月28日]])は、[[モンフェラート侯国|モンフェッラート侯]]。[[エルサレム王国|エルサレム]]王即位直前に[[暗殺教団]]の凶刃に倒れた[[第3回十字軍]]側の英雄の一人。通称は'''コンラド'''<ref name="Conrad"/>。彼の武勇は[[イスラ|イスラム]]側からは、'''アル・マルキシュ'''の名で恐れられていた。


== ティルス防御 ==
== 生涯 ==
=== 東ローマ帝国で活躍 ===
彼はかねがね東ローマ帝国内の反ラテン感情を息苦しく感じており、またブラナスの一族による復讐も心配となった。彼はコンスタンティノープルを去り、[[1187年]]の7月に[[エルサレム王国]]に移って港湾都市[[ティルス]](ティール)の守りを任された。おりしも、[[アイユーブ朝]]の[[サラディン]]による地中海沿岸諸都市の陥落と、[[ハッティンの戦い]]でのエルサレム王国軍の大敗によって、首都[[エルサレム]]陥落は時間の問題であり王国は滅亡に瀕していた。彼はティルスに迫るサラディンの軍に対し市民を鼓舞し陣形を整えイタリアの商船団の助けも借りて待ち構え、地形を利用してサラディンの大軍を少人数で撃退した。エルサレム陥落後の同年11月、ティルスはエルサレムからの避難民で溢れ返っていたが、サラディンは再度陸と海からティルスを攻撃した。コンラドは城をよく守り、弱点ともいえる海岸線でもエジプト船による攻撃に対し焼き討ちで撃退して緒戦の数週間を守り抜いた。長期戦になると考えたサラディンはティルス攻城戦をあきらめ他都市の征服に向かったが、これはコンラドの能力とティルスの上陸拠点としての重要性を甘く見たサラディンの失敗だった。コンラドは、国王の[[ギー・ド・リュジニャン]]が捕虜に取られ、領土もティルスの港だけとなったエルサレム王国において求心力を高めてゆく
[[イタリア]]でも名族で知られた[[モンフェラート侯国|モンフェッラート侯]][[アレラーミチ]]の出身。[[1179年]]、モンフェラート侯爵と当時の[[東ローマ帝国]]皇帝・[[マヌエル1世コムネノス]]との同盟に基づき、コンラドは軍を率いて出征し、帝国の内乱を鎮圧した。コンラドは智勇兼備の名将であったことから恐れられたが、この頃に東ローマ帝国は次々と皇帝が変わり、[[1185年]]に即位した皇帝[[イサキオス2世アンゲロス]]がとりわけ暗愚なために帝国の内乱は増える一方だった。


[[1186年]]の冬、イサキオス2世アンゲロスは彼に自分の姉テオドアを妻とするよう要請し、このころ東ローマを去って十字軍に加わろうと考えていたコンラドもこれを受け入れた。[[1187年]]春に結婚式がコンスタンティノープルで行われ、このことで家格もその存在も一段と高まった。結婚後すぐさまアレクシオス・ブラナス将軍の反乱の鎮圧に向かい、将軍を殺して反乱を収束させた。
== 王位をめぐる争い ==

=== ティルス防御 ===
彼はかねがね東ローマ帝国内の反ラテン感情を息苦しく感じており、またブラナスの一族による復讐も心配となった。彼はコンスタンティノープルを去り、[[1187年]]の7月に[[エルサレム王国]]に移って港湾都市[[ティルス]](ティール)の守りを任された。おりしも、[[アイユーブ朝]]の[[サラディン]]による地中海沿岸諸都市の陥落と、[[ハッティンの戦い]]でのエルサレム王国軍の大敗によって、首都[[エルサレム]]陥落は時間の問題であり王国は滅亡に瀕していた。彼はティルスに迫るサラディンの軍に対し市民を鼓舞し陣形を整えイタリアの商船団の助けも借りて待ち構え、地形を利用してサラディンの大軍を少人数で撃退した。

エルサレム陥落後の同年11月、ティルスはエルサレムからの避難民で溢れ返っていたが、サラディンは再度陸と海からティルスを攻撃した。コンラドは城をよく守り、弱点ともいえる海岸線でもエジプト船による攻撃に対し焼き討ちで撃退して緒戦の数週間を守り抜いた。長期戦になると考えたサラディンはティルス攻城戦をあきらめ他都市の征服に向かったが、これはコンラドの能力とティルスの上陸拠点としての重要性を甘く見たサラディンの失敗だった。コンラドは、国王の[[ギー・ド・リュジニャン]]が捕虜に取られ、領土もティルスの港だけとなったエルサレム王国において求心力を高めてゆく。

=== 王位をめぐる争い ===
[[1189年]]、ギーはサラディンにより解放されるとティルスに赴きコンラドから市の鍵を奪おうとするが、コンラドはこれを拒否し、逆に[[ハッティンの戦い]]における敗戦でギーは王たる資格を失ったと主張した。彼はギーとその妻で正式な王位継承者の[[シビーユ (エルサレム女王)|シビーユ]]の入城を拒んだが、ギーとは[[アッコン]]の港に対する数年にわたる包囲戦で協力する。
[[1189年]]、ギーはサラディンにより解放されるとティルスに赴きコンラドから市の鍵を奪おうとするが、コンラドはこれを拒否し、逆に[[ハッティンの戦い]]における敗戦でギーは王たる資格を失ったと主張した。彼はギーとその妻で正式な王位継承者の[[シビーユ (エルサレム女王)|シビーユ]]の入城を拒んだが、ギーとは[[アッコン]]の港に対する数年にわたる包囲戦で協力する。


包囲戦の最中、[[1190年]]にシビーユとその娘たちが病死すると、王位継承をめぐるギーやその他貴族たちとの争いにコンラドも巻き込まれる。このような中、各地でアイユーブ軍を撃退して勇名を馳せたこと、その家格などからコンラドは支持を集めるようになった。本国の親戚たちの助けも借り、コンラドはエルサレム王国のアモーリー王の娘で、シビーユとは母違いの妹にあたる王位継承者・イサベル1世と結婚している。この時、以前結婚したテオドアはまだ生きていたため重婚の疑いもかけられたが、戻ってこない彼に対する離婚の申し出が東ローマの方からあったとも見られ、さほど大きな問題とはみなされていなかったようである。彼は王となる資格を手に入れたが、なおもギーらは反対しており、王に即位することは出来なかった。
包囲戦の最中、[[1190年]]にシビーユとその娘たちが病死すると、王位継承をめぐるギーやその他貴族たちとの争いにコンラドも巻き込まれる。このような中、各地でアイユーブ軍を撃退して勇名を馳せたこと、その家格などからコンラドは支持を集めるようになった。本国の親戚たちの助けも借り、コンラドはエルサレム王国の[[アモーリー1世 (エルサレム)|アモーリー1世]]の娘で、シビーユとは母違いの妹にあたる王位継承者・[[ザベル1世 (エルレム女王)|イザベル1世]]と結婚している。この時、以前結婚したテオドアはまだ生きていたため[[重婚]]の疑いもかけられたが、戻ってこない彼に対する離婚の申し出が東ローマの方からあったとも見られ、さほど大きな問題とはみなされていなかったようである。彼は王となる資格を手に入れたが、なおもギーらは反対しており、王に即位することは出来なかった。


== 第3回十字軍 ==
=== 第3回十字軍 ===
[[1189年]]、第3回十字軍が開始されると彼も合流し、ティルスの港を大軍の上陸拠点として提供した。この頃、第3回十字軍は[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]](イギリス王、獅子心王)と[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]](フランス王、尊厳王)が対立していたためにサラディン率いるイスラム軍の前に連戦連敗し、シリアにおいても[[ティルス]]を除いた都市全てがサラディンに奪われるなど、不利な状況にあった。ところがコンラドは、かつてわずかな兵と共にティルスに入って全軍の指揮を執りサラディンの大軍を撃退したことが知られており一目置かれていた。彼はリチャード1世とともにアッコン攻撃を強め、[[1191年]]7月には陥落させて城にエルサレム王国の旗を立てた。
[[1189年]]、第3回十字軍が開始されると彼も合流し、ティルスの港を大軍の上陸拠点として提供した。この頃、第3回十字軍は[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]](イギリス王、獅子心王)と[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]](フランス王、尊厳王)が対立していたためにサラディン率いるイスラム軍の前に連戦連敗し、シリアにおいても[[ティルス]]を除いた都市全てがサラディンに奪われるなど、不利な状況にあった。ところがコンラドは、かつてわずかな兵と共にティルスに入って全軍の指揮を執りサラディンの大軍を撃退したことが知られており一目置かれていた。彼はリチャード1世とともにアッコン攻撃を強め、[[1191年]]7月には陥落させて城にエルサレム王国の旗を立てた。


十字軍に参加した騎士たちは、仲間内で対立を続けているリチャード1世やフィリップ2世より、コンラドを十字軍の指導者にすべきと求め始める。またエルサレム王としての即位とエルサレム王国の復活も諸侯から認められることとなった。これに対してリチャード1世は反対し、家臣の一人を王の対立候補として挙げようとしたが、コンラドに出会ってその人格を知ると、王位継承を承認したと言われている。
十字軍に参加した騎士たちは、仲間内で対立を続けているリチャード1世やフィリップ2世より、コンラドを十字軍の指導者にすべきと求め始める。またエルサレム王としての即位とエルサレム王国の復活も諸侯から認められることとなった。これに対してリチャード1世は反対し、家臣の一人を王の対立候補として挙げようとしたが、コンラドに出会ってその人格を知ると、王位継承を承認したと言われている。


=== 暗殺 ===
しかしコンラドの存在は、サラディンをはじめとするイスラム側にとっては脅威でしかなかった。また、ギーやリチャード1世ほかエルサレム王位を巡る敵が多かった。誰の依頼によるものかは今でも不明だが、1192年4月、[[ニザール派]]([[暗殺教団]]の別称があった)はコンラドの暗殺計画を計画し、コンラドはエルサレム王として即位する直前にニザール派の刺客に襲われて暗殺されてしまった。
しかしコンラドの存在は、サラディンをはじめとするイスラム側にとっては脅威でしかなかった。また、ギーやリチャード1世をはじめとして十字軍内部や王国内部にエルサレム王位を巡る敵が多かった。イスラム側か十字軍側か誰の依頼によるものかは今でも不明だが、1192年4月、[[ニザール派]]([[暗殺教団]]の別称があった)はコンラドの暗殺を計画し、コンラドはエルサレム王として即位する直前にニザール派の刺客に襲われて[[暗殺]]されてしまった。

コンラドとイベル1世の娘[[マリー・ド・モンフェラート|マリーア]]は、後にイザベル1世の後を継いでエルサレム女王となり、[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]と結婚した。弟の[[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ]]はモンフェラート侯を継いで[[第4回十字軍]]に参戦する事になる


== 脚注 ==
コンラドとイベル1世の娘[[マリー・ド・モンフェラート|マリーア]]は、後にイザベル1世の後を継いでエルサレム女王となり、[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]と結婚した。
{{Reflist}}


{{先代次代|[[モンフェッラート侯国|モンフェッラート侯]]|1191年 - 1192年|[[グリエルモ5世 (モンフェッラート侯)|グリエルモ5世]]|[[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ1世]]}}
[[Category:1146年生|こんらあと1]]
[[Category:1192年没|こんらあと1]]
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[[Category:1146年生]]
[[pl:Konrad z Montferratu]]
[[Category:1192年没]]
[[pms:Conrà ëd Monfrà]]
[[ru:Конрад (маркграф Монферратский)]]

2022年12月20日 (火) 14:17時点における最新版

コンラート1世
Conrad I
モンフェッラート侯
コンラート1世、フランソワ=エドゥアール・ピコ画、1843年
在位 1191年 - 1192年

出生 1146年
モンフェッラート
死去 1192年4月28日
アッコン
配偶者 エルサレム女王イザベル1世
子女 マリーア
家名 アレラーミチ家
父親 モンフェッラート侯グリエルモ5世
母親 ユディト・フォン・エスターライヒ
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コンラート1世[1](Conrad I, 1146年 - 1192年4月28日)は、モンフェッラート侯エルサレム王即位直前に暗殺教団の凶刃に倒れた第3回十字軍側の英雄の一人。通称はコンラド[1]。彼の武勇はイスラム側からは、アル・マルキシュの名で恐れられていた。

生涯[編集]

東ローマ帝国で活躍[編集]

イタリアでも名族で知られたモンフェッラート侯アレラーミチ家の出身。1179年、モンフェラート侯爵と当時の東ローマ帝国皇帝・マヌエル1世コムネノスとの同盟に基づき、コンラドは軍を率いて出征し、帝国の内乱を鎮圧した。コンラドは智勇兼備の名将であったことから恐れられたが、この頃に東ローマ帝国は次々と皇帝が変わり、1185年に即位した皇帝イサキオス2世アンゲロスがとりわけ暗愚なために帝国の内乱は増える一方だった。

1186年の冬、イサキオス2世アンゲロスは彼に自分の姉テオドアを妻とするよう要請し、このころ東ローマを去って十字軍に加わろうと考えていたコンラドもこれを受け入れた。1187年春に結婚式がコンスタンティノープルで行われ、このことで家格もその存在も一段と高まった。結婚後すぐさまアレクシオス・ブラナス将軍の反乱の鎮圧に向かい、将軍を殺して反乱を収束させた。

ティルス防御[編集]

彼はかねがね東ローマ帝国内の反ラテン感情を息苦しく感じており、またブラナスの一族による復讐も心配となった。彼はコンスタンティノープルを去り、1187年の7月にエルサレム王国に移って港湾都市ティルス(ティール)の守りを任された。おりしも、アイユーブ朝サラディンによる地中海沿岸諸都市の陥落と、ハッティンの戦いでのエルサレム王国軍の大敗によって、首都エルサレム陥落は時間の問題であり王国は滅亡に瀕していた。彼はティルスに迫るサラディンの軍に対し市民を鼓舞し陣形を整えイタリアの商船団の助けも借りて待ち構え、地形を利用してサラディンの大軍を少人数で撃退した。

エルサレム陥落後の同年11月、ティルスはエルサレムからの避難民で溢れ返っていたが、サラディンは再度陸と海からティルスを攻撃した。コンラドは城をよく守り、弱点ともいえる海岸線でもエジプト船による攻撃に対し焼き討ちで撃退して緒戦の数週間を守り抜いた。長期戦になると考えたサラディンはティルス攻城戦をあきらめ他都市の征服に向かったが、これはコンラドの能力とティルスの上陸拠点としての重要性を甘く見たサラディンの失敗だった。コンラドは、国王のギー・ド・リュジニャンが捕虜に取られ、領土もティルスの港だけとなったエルサレム王国において求心力を高めてゆく。

王位をめぐる争い[編集]

1189年、ギーはサラディンにより解放されるとティルスに赴きコンラドから市の鍵を奪おうとするが、コンラドはこれを拒否し、逆にハッティンの戦いにおける敗戦でギーは王たる資格を失ったと主張した。彼はギーとその妻で正式な王位継承者のシビーユの入城を拒んだが、ギーとはアッコンの港に対する数年にわたる包囲戦で協力する。

包囲戦の最中、1190年にシビーユとその娘たちが病死すると、王位継承をめぐるギーやその他貴族たちとの争いにコンラドも巻き込まれる。このような中、各地でアイユーブ軍を撃退して勇名を馳せたこと、その家格などからコンラドは支持を集めるようになった。本国の親戚たちの助けも借り、コンラドはエルサレム王国のアモーリー1世の娘で、シビーユとは母違いの妹にあたる王位継承者・イザベル1世と結婚している。この時、以前結婚したテオドアはまだ生きていたため重婚の疑いもかけられたが、戻ってこない彼に対する離婚の申し出が東ローマの方からあったとも見られ、さほど大きな問題とはみなされていなかったようである。彼は王となる資格を手に入れたが、なおもギーらは反対しており、王に即位することは出来なかった。

第3回十字軍[編集]

1189年、第3回十字軍が開始されると彼も合流し、ティルスの港を大軍の上陸拠点として提供した。この頃、第3回十字軍はリチャード1世(イギリス王、獅子心王)とフィリップ2世(フランス王、尊厳王)が対立していたためにサラディン率いるイスラム軍の前に連戦連敗し、シリアにおいてもティルスを除いた都市全てがサラディンに奪われるなど、不利な状況にあった。ところがコンラドは、かつてわずかな兵と共にティルスに入って全軍の指揮を執りサラディンの大軍を撃退したことが知られており一目置かれていた。彼はリチャード1世とともにアッコン攻撃を強め、1191年7月には陥落させて城にエルサレム王国の旗を立てた。

十字軍に参加した騎士たちは、仲間内で対立を続けているリチャード1世やフィリップ2世より、コンラドを十字軍の指導者にすべきと求め始める。またエルサレム王としての即位とエルサレム王国の復活も諸侯から認められることとなった。これに対してリチャード1世は反対し、家臣の一人を王の対立候補として挙げようとしたが、コンラドに出会ってその人格を知ると、王位継承を承認したと言われている。

暗殺[編集]

しかしコンラドの存在は、サラディンをはじめとするイスラム側にとっては脅威でしかなかった。また、ギーやリチャード1世をはじめとして十字軍内部や王国内部にエルサレム王位を巡る敵が多かった。イスラム側か十字軍側か誰の依頼によるものかは今でも不明だが、1192年4月、ニザール派暗殺教団の別称があった)はコンラドの暗殺を計画し、コンラドはエルサレム王として即位する直前にニザール派の刺客に襲われて暗殺されてしまった。

コンラドとイザベル1世の娘マリーアは、後にイザベル1世の後を継いでエルサレム女王となり、ジャン・ド・ブリエンヌと結婚した。弟のボニファーチョはモンフェラート侯を継いで第4回十字軍に参戦する事になる。

脚注[編集]

  1. ^ a b 「コンラート」はドイツ語読みであり、イタリア語では、コッラディーノ(Corradino)と発音される。
先代
グリエルモ5世
モンフェッラート侯
1191年 - 1192年
次代
ボニファーチョ1世