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「オットー百科事典」の版間の差分

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[[File:Ottuvslovnik.jpg|thumb|オットー百科事典]]
'''オットー百科事典'''(オットーひゃっかじてん、{{Lang-cs|Ottův slovník naučný}}, {{Lang-de|Ottova encyklopedie}})は、[[チェコ語]]で最大の[[百科事典]]である。
'''オットー百科事典'''(オットーひゃっかじてん、{{Lang-cs|Ottův slovník naučný}}, {{Lang-de|Ottova encyklopedie}})は、[[チェコ語]]で最大の[[百科事典]]である。


== 初版 ==
== 初版 ==
[[File:Ottuvslovnik.jpg|thumb|オットー百科事典]]
[[File:Redakce Ottova slovniku naucneho 1891 Roubalik.png|thumb|オットー百科事典の編纂風景(1891年)]]
[[File:Inzerce Ottova slovníku naučného v Kalendáři Zlaté Prahy 1895.jpg|thumb|1895年に掲載されたオットー百科事典の広告]]
[[1880年]]のはじめに、[[チェコ]]の書商であった{{仮リンク|ヤン・オットー|cs|Jan_Otto}}、{{仮リンク|フランティシェク・ラディスラフ・リーゲル|cs|František_Ladislav_Rieger}}による最初のチェコ語の百科事典([[リーゲル学習百科事典]]全14巻、[[1860年]] - [[1874年]])に影響を受け発刊を計画した。
1880年代初頭、[[チェコ]]の書商であった{{仮リンク|ヤン・オットー|cs|Jan_Otto}}、{{仮リンク|フランティシェク・ラディスラフ・リーゲル|cs|František_Ladislav_Rieger}}による[[リーゲル学習百科事典]]全14巻、1860年 - 1874年)に大きな影響を受け、そこから着想を得たオットーは新しい百科事典の発刊を計画した。


編集主任{{仮リンク|ヤクブ・マリー|cs|Jakub_Malý}}が選ばれたが、[[1885年]]彼が死亡したため、その後任として[[トマーシュ・マサリク]](のちの[[チェコスロバキア]]大統領)が編集主任に就いたが、Zelenohorský写本、Královedvorský写本の偽作問題に巻きこまて彼は辞任した。以工学家、神学者、チェコ大学の代表を委員編集委員会が設立され、同委員会が編集進めた。
編集主任として{{仮リンク|ヤクブ・マリー|cs|Jakub_Malý}}が選ばれ、彼は新しく刊行されるこの百科事典を「チェコ百科事典」と命名しようとしたが、第1巻の発行直前になって「オットー百科事典」の名に変更された。マリーは1885年に死亡し、その後任編集者として[[トマーシュ・マサリク]](のちの[[チェコスロバキア]]大統領)が選ばれた。マサリクはオットー百科事典の刊行計画前から情報が古くなったリーゲル習百科事典の代新しい百科事典の刊行望んでいた。


しかし、オットー百科事典の刊行は思うように進まず、1886年に発行される予定であった第1巻は、1888年になってようやく発行された。この刊行の遅さに失望したマサリクは、1887年に編集主任を辞退した。また、Zelenohorský写本、Královedvorský写本の偽作問題に巻きこまれたことも、彼の辞任理由に含まれていた。
[[1888年]]1月より出版を開始[[1908年]]終えた。初版は全23巻(第23巻は補遺)で約150,000項目であり、ページ数は28,912ページである。

マサリクが編集主任を辞退したあとは、工学家、神学者、大学の代表者を中心とした編集委員会が設立され、彼らがオットー百科事典の編集を進めた。編集主任は1892年までは{{仮リンク|ヨゼフ・コシャン|cs|Josef_Kořán}}が、1898年までは{{仮リンク|ルドルフ・ドヴォルザーク|cs|Rudolf_Dvořák}}が、1908年のオットー百科事典のプロジェクト終了までは{{仮リンク|プリムス・ソボトカ|cs|Primus_Sobotka}}が務めた。

最終的に、オットー百科事典の刊行には20年ほどかかり、1888年1月から開始された出版は、1908年になってようやく完了した。初版は全23巻(第23巻は補遺)で約150,000項目であり、ページ数は28,912ページである。

また、1905年からは''Malý Ottův slovník naučný''という名称でオットー百科事典の縮約版(全2巻、合計2,464ページ)が刊行され、1908年にはポケットサイズのオットー百科事典(全1巻、1,608ページ)も発行された。後者は1926年に再版されている。


== 新版 ==
== 新版 ==
初版の16巻の改訂版が計画された。[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が始まり、[[1916年]]にオットーが死亡したあも編集が行われたが費用が急騰したため完成に至らなかった。のちにオットーの義理の息子である[[:cs:Karel_Boromejský_Mádl|K. B. Mádl]]がヤン・オットー出版社を作り、1930年から大規模な改訂を行った(新代オットー百科事典、''Ottův slovník naučný nové doby'')
初版の刊15巻の改訂版が法学史教授の{{仮リンク|カレル・カドレック|cs|Karel_Kadlec_(právník)}}によって計画された。しかし、[[第一次世界大戦]]の勃発とヤン・オットーの死去大きな要因なり、完成に至らなかった。

その後、オットーの義理の息子である[[:cs:Karel_Boromejský_Mádl|K. B. Mádl]]がヤン・オットー出版社を立て、編集主任として{{仮リンク|ボフミル・ニェメック|cs|Bohumil_Němec}}を選び、内容を刷新した『新代オットー百科事典』(''Ottův slovník naučný nové doby'')の刊行を計画した。当初、新代オットー百科事典の刊行はヤン・オットー出版社が担当していたが、同社の資金難により、1934年からは{{仮リンク|ノヴィナ社|cs|Novina_(nakladatelství)}}が担当している。


[[1934]]以後資金の問題別の会社が編集を担当することなった。16巻が完成し残り2巻印刷するみとなっが、[[1943年]][[ナチス]]に出版を差し止め戦後の[[1945年]]には、ナチス[[検閲]]がかかっているとして、戦中された巻も絶版が命ぜられた。全12巻、約60,000項目8,585ページ、大きさは初版のおよそ3分の1で項目はUžok(当時[[ハンガリー]]領の[[:hu:Uzsok|ウジョク村]]。現在は[[ウクライナ]]に属する)で終わっている。
1930から始まった新代オットー百科事典の刊行は1943年までに12発行されたが、最後の2巻分は印刷の準備ができていたにもかかわ、[[第二次世界大戦]]の激化より発できずに終わった。新代オットー百科事典は約60,000項目と合計8,585ページを備え、大きさは初版の3分の1ほどあった。最後の項目はUžok(当時[[ハンガリー]]領の[[:hu:Uzsok|ウジョク村]]。現在は[[ウクライナ]]に属する)でる。


== CD-ROM版 ==
[[1997]]から[[1999]]にかけてOttova encyklopedie obecných vědomostíという名でCD-ROM化され
1996年から2003年にかけて、''Ottova encyklopedie obecných vědomostí''という名、初版・新版の両方のオットー百科事典がCD-ROM化されている


== 参考書籍 ==
== 参考書籍 ==
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* [[百科事典]]
* [[百科事典]]
* [[辞典]]
* [[辞典]]
* [[チェコ語]]
* [[チェコスロバキア]]
* [[チェコ]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://kramerius4.nkp.cz/search/handle/uuid:7e11fe20-043e-11e5-95ff-5ef3fc9bb22f Kramerius 5.]{{en icon}}{{cz icon}}
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2024年3月8日 (金) 04:35時点における版

オットー百科事典

オットー百科事典(オットーひゃっかじてん、チェコ語: Ottův slovník naučný, ドイツ語: Ottova encyklopedie)は、チェコ語で最大の百科事典である。

初版

オットー百科事典の編纂風景(1891年)
1895年に掲載されたオットー百科事典の広告

1880年代初頭、チェコの書商であったヤン・オットーチェコ語版は、フランティシェク・ラディスラフ・リーゲルチェコ語版によるリーゲル学習百科事典(全14巻、1860年 - 1874年)に大きな影響を受け、そこから着想を得たオットーは新しい百科事典の発刊を計画した。

編集主任としてヤクブ・マリーチェコ語版が選ばれ、彼は新しく刊行されるこの百科事典を「チェコ百科事典」と命名しようとしたが、第1巻の発行直前になって「オットー百科事典」の名に変更された。マリーは1885年に死亡し、その後任編集者としてトマーシュ・マサリク(のちのチェコスロバキア大統領)が選ばれた。マサリクはオットー百科事典の刊行計画以前から、情報が古くなったリーゲル学習百科事典の代替となる新しい百科事典の刊行を望んでいた。

しかし、オットー百科事典の刊行は思うように進まず、1886年に発行される予定であった第1巻は、1888年になってようやく発行された。この刊行の遅さに失望したマサリクは、1887年に編集主任を辞退した。また、Zelenohorský写本、Královedvorský写本の偽作問題に巻きこまれたことも、彼の辞任理由に含まれていた。

マサリクが編集主任を辞退したあとは、工学家、神学者、大学の代表者を中心とした編集委員会が設立され、彼らがオットー百科事典の編集を進めた。編集主任は1892年まではヨゼフ・コシャンチェコ語版が、1898年まではルドルフ・ドヴォルザークチェコ語版が、1908年のオットー百科事典のプロジェクト終了まではプリムス・ソボトカチェコ語版が務めた。

最終的に、オットー百科事典の刊行には20年ほどかかり、1888年1月から開始された出版は、1908年になってようやく完了した。初版は全23巻(第23巻は補遺)で約150,000項目であり、総ページ数は28,912ページである。

また、1905年からはMalý Ottův slovník naučnýという名称でオットー百科事典の縮約版(全2巻、合計2,464ページ)が刊行され、1908年にはポケットサイズのオットー百科事典(全1巻、1,608ページ)も発行された。後者は1926年に再版されている。

新版

初版の刊行後、全15巻の改訂版が法学史教授のカレル・カドレックチェコ語版によって計画された。しかし、第一次世界大戦の勃発とヤン・オットーの死去が大きな要因となり、完成に至らなかった。

その後、オットーの義理の息子であるK. B. Mádlがヤン・オットー出版社を立て、編集主任としてボフミル・ニェメックチェコ語版を選び、内容を刷新した『新代オットー百科事典』(Ottův slovník naučný nové doby)の刊行を計画した。当初、新代オットー百科事典の刊行はヤン・オットー出版社が担当していたが、同社の資金難により、1934年からはノヴィナ社チェコ語版が担当している。

1930年から始まった新代オットー百科事典の刊行は、1943年までに12巻分が発行されたが、最後の2巻分は印刷の準備ができていたにもかかわらず、第二次世界大戦の激化により発行できずに終わった。新代オットー百科事典は約60,000項目と合計8,585ページを備え、大きさは初版の3分の1ほどであった。最後の項目はUžok(当時ハンガリー領のウジョク村。現在はウクライナに属する)である。

CD-ROM版

1996年から2003年にかけて、Ottova encyklopedie obecných vědomostíという名称で、初版・新版の両方のオットー百科事典がCD-ROM化されている。

参考書籍

  • Sayer, Derek (1998). The Coasts of Bohemia: A Czech History. Princeton Univ Pr. ISBN 0-691-05760-5

関連項目

外部リンク