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544 日臨麻会誌 Vol. 36 No.5/Sep. 2016 日本臨床麻酔学会第 35 回大会招請講演 日臨麻会誌 Vol.36 No.5, 544 〜 549, 2016 麻酔科医から緩和医療医へ 竹中元康* [要旨]麻酔科学は,外科手術を円滑に行うために登場した医学・医療の一分野であり,疾患,手 術操作,薬剤に対する生理的反応をコントロールし患者の安全と快適を目指す領域である.一方, 緩和医療学は生命を脅かす疾患に起因した諸問題に直面する患者・家族に早期より関わり,苦痛の 予防と苦痛からの解放を図り Quality of life の改善を目指す領域である.麻酔科学と緩和医療学, 急性期と慢性期,蘇生と看取りなどまったく相いれない領域のように考えられるが,痛みの軽減 (鎮 痛) ,鎮静,呼吸循環動態の安定,ストレスの軽減を図るなど実際には共通点も多く認められる. がんの痛みは患者のみならずその家族にとっても重大な関心事であるが,十分とは言えないことも 多い.麻酔科医は鎮痛や鎮痛手段に精通しており,疼痛コントロールについて特別なスキルを持っ たエキスパートであるため緩和ケアにおいても重要な役割が果たせると考える.今後,わが国にお いてより良い緩和医療を提供するためには緩和ケアのスペシャリストのみではなくプライマリー緩 和ケア医を育成することが重要である. キーワード:麻酔科医,緩和医療医,がん性疼痛,プライマリー緩和ケア はじめに 日本人において 40 歳から 89 歳における死因の第 1 位はがんであり,2 人に 1 人ががんになり 3 人に 1 人はがんで死ぬことが知られている.がん対策基本 法の制定もあり,近年がん患者の治療とともに緩和 科医も増えており,私もその一員である.今回,麻 酔科医から緩和医療医,特に急性期病院における緩 和医療医へと仕事の場を移したことで感じたことや 今後の方針などについて述べさせていただく. Ⅰ 「麻酔科学と緩和医療学」について 医療にも関心が高まっており,中でも疼痛緩和など 麻酔科学は,人間が生存し続けるために必要な呼 身体症状のマネジメントの重要性が以前にも増して 吸器,循環器等の諸条件を整え,生体の侵襲行為で 認識されるようになっている.麻酔科医は,以前よ ある手術が可能なように管理する医学領域である 1). り手術室での臨床麻酔を中心として集中治療,救急 一方,緩和医療学は生命を脅かす疾患に起因した諸 医療,ペインクリニックを仕事の場として活躍し評 問題に直面する患者・家族に早期より関わり,苦痛 価を得ており,特にペインクリニック科医は今まで の予防と苦痛からの解放を図り Quality of life (QOL) も疼痛治療の専門家としてがん性疼痛の鎮痛治療に の改善を目指す領域であり,次第にその必要性は増 も取り組んできた.近年緩和医療の需要の増大に伴 えている 2).ちなみに緩和医療とは,がんを中心と い,緩和医療に関わる麻酔科医・ペインクリニック した患者の苦痛軽減を目的とした医療従事者が提供 * 東海大学医学部医学科専門診療学系緩和医療学 著者連絡先 竹中元康 〒 259-1193 神奈川県伊勢原市下糟屋 143 東海大学医学部医学科 専門診療学系緩和医療学 545 する医療をいい,緩和ケアは緩和医療に加え医療従 となる症状を持つ.中でも疼痛コントロールは最大 事者以外にも宗教家・ボランティアなど多くの人々 の関心事となる要素を持っており,その点において の協力のもと患者やその家族に提供するケアを指 麻酔科医は疼痛コントロールのエキスパートであり す.麻酔科学と緩和医療学,急性期と慢性期,蘇生 特別なスキルを持っているため緩和ケアにも大きな と看取りなどまったく相いれない領域のように考え 貢献ができる」と記されるなど麻酔科医の緩和ケア られるが,痛みの軽減 (鎮痛) ,鎮静,呼吸循環動態 への関与の重要性や必要性が述べられている 5), 6). の安定,ストレスの軽減を図るなど実際には共通点 わが国においても麻酔科医 (ペインクリニック科医) も多く認められる.したがって麻酔科医にとって緩 は疼痛治療へ深く関わっており,周術期疼痛に対す 和医療は決して縁遠いものではなく,選択肢の一つ る麻薬をはじめとする鎮痛薬の知識と経験に加え, として十分対応できる分野であり,それを行うこと 神経ブロックを中心とした各種鎮痛手段に造詣が深 によって病院内における活躍の場がさらに広がると く周囲からも評価されている.また近年では疼痛に 考える. 関する精神心理的要因の関与にも研鑚を積んでお がん患者は身体的苦痛,精神的苦痛,社会的苦痛, り,緩和ケアにおける身体症状治療者としても適任 spiritual pain からなる苦痛 (Total pain)を有してお 者になりうると考える.さらに一方では,麻酔科医 り慎重な対応が必要とされるが,中でも身体的苦痛 は,がんをはじめとする重症疾患患者も手術を受け は大きな要素となっている.一般に,がん患者の半 る可能性が増えてきており,手術後の患者の容体の 数以上はなんらかの痛みを有するが,WHO 方式に 変化や麻酔薬のがんの進行や再発への影響について のっとった鎮痛治療を的確に講ずることによりその も助言したりする立場にあり,緩和医療の概念を理 痛みの 80%はコントロールできるとされている . 解しておくことが要求される 7) (表 1) . 3) また,痛みは比較的体調の良い時期から最終末にわ このような点からも緩和ケアチームを必要として たり生じ,QOL の低下をきたし,精神的苦痛とも いる施設は増加しており,麻酔科医 (ペインクリニ 大きく関連することは知られている.例えば,がん ック医)の重要度は今後さらに高くなっていくと考 やその治療により生じた痛みは不安・抑うつ・恐怖・ えられる. 怒り・無力感を高めるなど精神的苦痛を増強し,さ 現在わが国では,がん医療において年間約 70 万 らに疼痛閾値の低下をはじめ疼痛体験や苦痛の悪化 人ががんの診断を受け,実際にがん治療を受けてい をきたし,ついには社会活動の減少・社会的機能や る人が 150 万人,がんを抱えながら生活するがんサ ネットワークの回復低下をきたす.したがって,こ バイバーが約 500 万人存在するといわれており,急 れらの患者の QOL を維持するためにも身体的苦痛 速に増加している 8).これらの患者に対して急性期 の緩和を図ることが重要で,その上で精神的緩和が 病院から在宅医療までさまざまな段階で緩和ケアが 有効となると言っても過言ではなく,がんの痛みが 患者の QOL を高めることができるため,全国どこで 軽減しない患者は希死念慮や自殺企図を生じるリス も質の高いがん医療を受けることができる体制を整 クが高いといわれている . 備することを目的としてがん診療連携拠点病院が整 4) Ⅱ 麻酔科医と緩和医療医について 備され,都道府県がん診療連携拠点病院(49 施設) , 地域がん診療連携拠点病院 (352 施設) ,地域がん診 緩和ケアについては,麻酔科の代表的教科書であ 療病院 (20 施設) ,特定領域がん診療連携拠点病院 (1 る「Millerʼs Anesthesia」にもその章があり, 「がん 施設) (平成 27 年 4 月)が指定されている.これらの 患者は疼痛・呼吸困難・不安・うつなど非常に重荷 がん拠点病院においては緩和ケアの整備も求められ 546 日臨麻会誌 Vol. 36 No.5/Sep. 2016 表1 麻酔薬の選択とがんへの影響 薬剤 Potential Effect on Antitumor Host Defenses Ketamine, Thiopental 動物実験で natural killer(NK)cell の活性化と数の減少 Propofol 動物実験で NK cell の数の減少 Volatile agents 動物実験で NK cell 細胞毒性のインターフェロン刺激を阻害 人間で NK cell の数の減少 Nitrous oxide 動物実験で肺や肝臓への転移の増悪に関与 腫瘍細胞に対して重要である造血細胞の構造を阻害 Local anesthetic drugs In vitro でリドカインは上皮成長因子受容体や腫瘍細胞増殖を 阻害する(ロピバカインはがん細胞の成長を阻害する) Morphine 動物実験で NK cell を含む細胞免疫を阻害 人間で NK cell の活性化を阻害 Fentanyl 人間で NK cell の活性化を阻害 〔文献 7) より引用・改変〕 ており,基本的緩和ケアの提供体制,苦痛のスクリ は,患者はあくまでも治療・治癒を目的として通院・ ーニング,患者と家族の心情に配慮した意思決定環 入院しており,医師から突然に積極的・根治的治療 境の整備,専門的緩和ケアへのアクセスの改善とそ の断念を宣告され緩和ケアへ紹介されることに対し の提供体制の充実,相談支援の提供体制,切れ目の 受け入れができないことも多い.そのような患者に ない地域連携体制の構築が進んでいる (図 1) . は主治医のみの対応では不十分であり緩和ケアチー 当院は神奈川県の湘南西部を 2 次医療圏とする地 域がん診療連携拠点病院・特定機能病院であり,病 床数 804 床,平均在院日数 12 日,手術件数 900 件 / ムの介入する意義があり,緩和ケア医として取り組 む重要課題の一つであると考えている. ここで,急性期病院における緩和ケアとして実際 月と代表的な急性期病院であるが,入院患者の約 に経験し印象に残った症例を提示する. 15%はがん患者であり緩和ケアの介入が必要な患者 <症例 1 > も多く存在する.緩和ケア科の介入は入院患者が 45 歳女性.難治性濾胞性リンパ腫の診断のもと脾 360 人 / 年,外来患者は身体部門が 250 人 / 年,精 臓摘出,化学療法施行したが 1 年 2 カ月後,上腹部 神部門 180 人 / 年で年々需要が増えている.しかし 大動脈から後腹膜・下行結腸に腫瘤形成したため自 特定機能病院としての性格上, ①高度な医療の提供, 家血幹細胞移植施行し腫瘤の著明な縮小を認めた. 技術の開発・評価,研修を行う (高度に専門的な疾 3 カ月後再発に対し化学療法施行中,左臀部から両 患を治す技術の研修・教育のもと医師を育成する) 下肢にかけての激痛および下肢麻痺が出現し,CT ことと,②地域医療の中心として近隣の病院や診療 上左大腰筋から椎間孔にかけて腫瘍浸潤を認め緩和 所と連携して地域全体の医療の質向上を目指す(地 ケアチームコンサルトとなった.その後鎮痛薬の調 域からの紹介患者に専門的医療を提供した上で元の 整の結果,オキシコドン注射薬 60mg/ 日で NRS (nu- 医療機関に戻す)ことが求められており,患者を最 merical rating scale)2/10 と疼痛ほぼ自制内となっ 後まで診療することが任務ではない場合もままある たが下肢麻痺は改善を認めず,患者は現在の病状を ため終末期を支えるには不十分であると言わざるを 受け入れられず今後の不安で泣いている (生命予後 得ない面がある.さらに当院のような急性期病院で は約 6 カ月と予想されるが患者には知らせていな 547 図1 がん患者の経過と対応 い).さらに小学 4 年生の娘への対応に苦慮,在宅 これら 2 症例とも経過が急で,患者および家族が 希望であるが家族への負担や住宅環境の不安など社 症状と治療方針に十分に対応できていない.子供の 会的苦痛,スピリチュアルな苦痛,精神的苦痛が問 今後に対する不安・心配,さらに症例 2 では金銭的 題である. 心配も強いなど社会的苦痛,スピリチュアルペイン <症例 2 > のケアに苦慮した症例である.このような症例,ま 50 歳男性.肺腺癌,脊椎転移. だ気持ちの整理のついていない,現況を受け入れて 数日前より続く上背部痛にて当院整形外科受診し いない患者への対応は本院のような急性期がん拠点 精査の結果,肺腺癌,第 4 胸椎椎体転移および脊髄 病院,特定機能病院であるからこそしばしば経験す 圧迫,深部静脈血栓を認め手術適応なく化学療法, ることであり,緩和ケアチームとしても対応に苦慮 放射線療法,抗血栓療法開始となった.2 カ月後左 することが多く臨床心理士,ソーシャルワーカーな 大殿筋から中殿筋に出血を伴う腫瘍併発,脊椎転移 ども含めた多職種からなるチーム医療の重要性を痛 巣増大を示し,患者は不安・不眠・抑うつ症状が出 感している (図 2) . 現した.3 カ月後,オキシコドン徐放薬 280mg/ 日 で NRS 2/10 と疼痛自制内となったが腫瘍による膀 Ⅲ 今後の取り組み 胱直腸障害・肝機能障害も出現し化学療法継続が困 現在,全国の病院において緩和ケアチームが次第 難であり,ホスピス・在宅医療への移行の説明を受 に整備されるとともに緩和ケアを専門とする医師 けるが受け入れられない.患者は自覚症状が少なく (緩和ケアスペシャリスト) ,すなわち,より難治性 治療継続の希望や家族の今後の生活 (妻と中学 2 年 で頑固な痛みや症状のマネジメント,うつ状態・不 と小学校 4 年の女児)に苦悩し気持ちの整理・決断 安・悲嘆・苦痛などの精神症状のマネジメント,治 がつかない状態で 4 カ月後突然の脳梗塞・不整脈に 療のゴールなどに関する調整・助言を行うことがで て逝去となった. きる医師の数も増加してきている.しかし,一方で 548 日臨麻会誌 Vol. 36 No.5/Sep. 2016 図2 痛みを持ったがん患者に対する Interdisciplinary care(学際的ケア) はスペシャリストに依存し,すべてを任せてしまう まり周囲からも信頼される病院となることができる. 場面が臨床の場でしばしば見られるようになり,緩 和ケアに関心がなく知識を持たない医師が増えアメ リカで問題となっており,わが国でもその兆候が表 れてきていると感じることがある 9).したがって今 後のわが国においては,痛みや症状の基本的マネジ メント,うつ状態や不安の基本的マネジメント,予 後や治療のゴール,精神的苦しみについての基本的 検討・討論のできるプライマリー緩和ケア医 (緩和 ケアを理解している主科の医師)の育成を図り,す べての医師が基本的緩和ケアの行える医療環境を充 実させることが重要であると考えており取り組んで いきたい. 参考文献 1) 日本麻酔科学会について (日本麻酔科学会ホームページ http://www.anesth.or.jp/) 2) WHO definition of palliative care.(http://www.who. int/cancer/palliative/definition/en/) 3) 後明郁男,真野徹:がん疼痛の薬物療法,1 ランクアッ プをめざす! がん疼痛治療.南山堂,東京,2013, 17-23 4) MD アンダーソン サイコソーシャル・オンコロジー. 大中俊宏,岸本寛史監訳.メディカル・サイエンス・ インターナショナル,東京,2013,171-196 5) Sarah Gebauer:Palliative medicine, Miller’s Anesthesia, 8th ed. Edited by Ronald D. Miller. Elsevier, Philadelphia, 2015, 1919-1941 結 語 緩和医療は臨床を行うすべての医師が身に付けて おくべき基本的姿勢である.麻酔科医はがん性疼痛 に対して特別なスキルを持ち,緩和ケア医としての 適性も有している.また,がん拠点病院や急性期病 院において必要となる緩和ケアがあり,それを充実 させることにより緩和ケア医の病院内での地位も高 6) Fine PG:The evolving and important role of anesthesiology in palliative care. Anesth Analg 100:183-188, 2005 7) Snyder GL, Greenberg S:Effect of anaesthetic technique and other perioperative factors on cancer recurrence. Br J Anaesth 105:106-115, 2010 8) 厚生労働省統計情報・白書.平成 23 年 9) Quill TE, Abernethy AP:Generalist plus specialist palliative care--creating a more sustainable model. N Engl J Med 368:1173-1175, 2013 549 From Anesthesiologist to Palliative Care Doctor Motoyasu TAKENAKA Department of Palliative Medicine, Tokai University School of Medicine Anesthesiology is a branch of medicine that focuses on pain relief during and after surgery, and is aimed at the patient’s safety and comfort. On the other hand, palliative medicine is an academic discipline about approaches that improve the quality of life of patients and their families facing problems associated with life-threatening illnesses. Anesthesia and palliative care have shared objectives such as analgesia, sedation and reduction of stress. Cancer patients have a significant symptom burden, most often involving pain, dyspnea, anxiety and depression. Although pain control is the major concern of cancer patients and their families, they are often dissatisfied with the quality of pain control. Anesthesiologists have detailed knowledge of drugs and methods for pain relief, and have specific skills in symptom management that may benefit the patient. For these reasons, anesthesiologists can play a key role in palliative care. To manage many palliative care problems and improve the quality of health care, it is necessary to cultivate not only palliative care specialists but also physicians with primary palliative care skills. Key Words : Anesthesiologists, Palliative doctor, Cancer pain, Primary palliative care The Journal of Japan Society for Clinical Anesthesia Vol.36 No.5, 2016