よくあるご質問
よくあるご質問
お仏壇
- お仏壇はどこへ置く?
お仏壇が、真実の依りどころとなる仏さまをお迎えして、そのお心と浄土を味わうところなのですから、購入時期については、家族に死者が出ようが出まいが、それに影響されず求めるのが一番です。
お仏壇を求めたならば、次に置く場所です。このポイントは、心が落ち着ける場所を選ぶことです。玄関先や、部屋の出入り口近くでは、人がよく通るので落ち着きません。また、外の光がお仏壇の背後から差し込む方角だと、お仏壇に向き合う人にとっては逆光となるので、眩しくて心が集中できません。「北向き」の方角を気にするよりも、実際の光の入り具合を考えて、向きを決めてください。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P24)』をご覧ください。 - お仏壇を迎える意味は?
お仏壇は、仏さまの真実心(まごころ)に触れるところです。それは仏さまの救いによって自らも仏となられた亡き人の「尊さや真実心に触れるところ」とも言えます。また、亡き人の「願いを聞く場」でもあり、「仏となって、つねに私を見守ってくださる亡き人に出遇う場」でもあります。つまり、亡き人も私も、ともに仏さまに包まれ、心の温もりを味わう場がお仏壇なのです。
要は、亡き人を偲ぼうとする方も、家族の皆が心通わすことが大切だと思われる方も、一人住まいの方も、長男も、末っ子も、人間どんなスタイルであっても、生きる依りどころとなってくださる仏さまをお迎えするために、まずはお仏壇を自分たちの生活空間に置きましょう。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P12)』をご覧ください。 - 亡き人はどこへ?
実体としての亡き人はお仏壇の中にはいないけれども、かたちやこだわりを超えて、仏さまとなられた亡き人はいつも私に寄り添ってくださっています。その亡き人に、お仏壇を通して遇うということです。
実はそれがお仏壇のお仏壇たる所以なのです。「亡き人は阿弥陀仏の救いによって浄土に生まれ、仏さまになられている」と味わいます。そして、お仏壇はその阿弥陀さまの浄土を表しているのです。本来、浄土は色もかたちもない真実そのものの世界であり、私たちの思考を超えた世界です。それをかたちに表わそうとしたのがお仏壇の造りだと言われています。
亡き人は、お仏壇のどこかにおられるのではなく、阿弥陀さまの浄土に生まれ、仏さまとなっていつでもどこでも私たちに寄り添い、一人ひとりを輝かせようとはたらいておられます。お仏壇はその亡き人が生まれた浄土を表しているのです。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P22)』をご覧ください。 - お仏壇のご主人は?
お仏壇は仏さまをお迎えするために設けた家のようなところですので、浄土真宗で言えばお迎えする仏さまは阿弥陀仏のこと。したがって、阿弥陀さまがその家の「ご主人」になります。ご主人である阿弥陀さまを具体的に表わしたのがご本尊です。お迎えしたご本尊は、お仏壇に三つに区切られた中央のスペースに安置され、両隣はお脇掛けが奉懸されます。
中央=阿弥陀仏のお姿を描いた「絵像本尊」または「六字名号(南無阿弥陀仏)本尊」
左脇(向かって右)=宗祖「親鸞聖人」の御影、または「十字名号(帰命尽十方無碍光如来)」
右脇(向かって左)=本願寺中興の祖「蓮如上人」の御影、または「九字名号(南無不可思議光如来)」
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P18)』をご覧ください。 - お仏壇を迎えて行うことは?
浄土真宗では、新しいお仏壇にご本尊(※)をお迎えするときの法要を「入仏法要」と言います。「入仏」と言っても、お勤めする僧侶が、仏さまの「魂」を入れるのではありません(そんな大胆不敵なことはできる道理がありません・・・・・・)。入仏法要とは、仏さま(ご本尊)をお迎えしたことを喜び、仏さまのお徳を讃える法要だということです。
「お魂入れ」や「お性根入れ」とは言いません。「入仏法要」もしくは「入仏式」と言ってください。
いずれにしても、手次ぎのお寺に頼み、ご本尊の奉懸や法要をお願いしてください。
※ご本尊:阿弥陀仏のお姿を描いた「絵像本尊」または「六字名号(南無阿弥陀仏)本尊」のこと
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P26)』をご覧ください。 - 線香と焼香
お香は体臭などの悪臭を除き、心身ともに落ちつかせてくれるところから、これを仏前にお供えすることが早くから行われてきました。
そのお香の種類は、一般家庭では線香と焼香用のお香ぐらいではないかと思います。いずれも香炉にくべるのは言うまでもありませんが、香炉にも種類があり、使い分けられています。
まず、日常的に使われる線香は、土香炉と呼ばれる口の広い陶磁器製の香炉で燃やします。この際、線香は立てずに、短く数本に折って寝かせます。
次に、法事などの改まった時に行う焼香は、フタのついた金属製の金香炉を用います。つまり、火種を入れて使用するのが金香炉なのです。ときどき、金香炉で線香を燃やす方がいますが、金香炉では口が狭く、形の上からも線香を寝かせるには適しません。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P34)』をご覧ください。 - 位牌を用いない!
そもそも位牌は、中国の儒家で用いられていたもので、亡き人の官位と姓名を記した牌であり、そこに神霊が宿ると信じられていました。やがて日本の先祖崇拝と結びつき、仏教にも転用されたのですが、やはり根底に「霊の宿る所」という意識が残っていると言わねばなりません。
過去帳は、先祖の記録帳のようなもので、亡き人の法名、俗名、死亡年月日などを記しておきます。命日や法事の時に過去帳を置く場合は台に載せて開け、ご本尊の妨げとならないようにお仏壇の中脇壇か、下段に置きます。もちろん、過去帳の前にはお水や食物などは供えません。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P48)』をご覧ください。
お墓
- 浄土真宗のお墓は?
浄土真宗のお墓は、こうしなければならないというような明確な決まりがあるわけではありません。ただ、これは相応しくないとか、こうすればよいというようなお薦め事項はあります。
①建てようと思ったら、まずお寺に相談すること
②墓相に惑わされないように
③墓石の形もこだわらずに
④石碑(軸石)の正面には「南無阿弥陀仏」のお名号を刻みましょう
⑤観音像、地蔵像、宝塔は建てなくてよい
⑥吉日の文字は刻まない
⑦「霊標」とせず「法名碑」に
お墓が完成したら、建碑式(法要)を行います。お性根入れとは申しません。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P90)』をご覧ください。 - 納骨とお墓参り
納骨の時期については、特に決まりはありませんが、いつまでも家に置いておくことだけは避けたいものです。満中陰あるいは百ヵ日あたりが一つの目安になります(地域で違いはあります)。お墓に納める時は手次ぎのお寺に依頼して、納骨のお勤めをしてもらってください。石碑に付いた汚れやドロを落として、墓前に花やお香、供物などを供えて、気持ちよくお参りしましょう。
亡き人はお墓の中にいるのではなく、浄土に生まれて仏さまになっておられます。無量のいのちをいただかれて、私たちにいつも寄り添い、まごころをかけ続けてくださっているのです。
亡き人の私たちにかけられたそうした願いとはたらきを聞くと同時に、諸行無常の理をかみしめながら、確かな依りどころとなる念仏を味わう-それが浄土真宗のお墓参りです。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P88)』をご覧ください。 - 分骨とは?
「分骨はいけない」と思っている人が確かにいるようです。分骨することによって亡き人の"身が裂かれて"バラバラになり、亡き人が苦しむというわけです。
これは遺骨そのものを亡き人と見てしまう執らわれの結果です。亡き人は"骨"ではなく、限定して捉えることのできない存在になっているのです。そうした亡き人の遺徳を偲ぶ縁として遺骨があるのです。
遺骨を前にして、縁ある人びとが少しでも多く、亡き人を偲び、阿弥陀さまの広大なお慈悲に遇うことができれば、むしろ喜ばしいことです。ですから、分骨がいけない理由は、どこにもありません。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P94)』をご覧ください。 - お墓の継承
最近は、納骨のあり方が多岐にわたっていますので、流行に惑わされずに、自らの信仰と死生観を尊重しながら選んでいただきたく思います。
心得ておきたいのは、納骨のかたちを最終的に決めるのは、亡き人本人ではなく、亡き人を偲ぶ側の人であるということです。もし、後を継ぐ人がおられない場合は、本人が生前に、信頼おける方に頼んでおくことにはなるでしょうが・・・・・・。これは致し方ありません。
「葬」の意味から言っても、お墓に納骨するのは亡き人を敬い、その遺徳を偲ぶための仏縁作りと思っていただきたいのです。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P92)』をご覧ください。
仏事
- 法事の意味
実際に、私たちが行う法事と言えば、亡き人の命日をご縁に勤める年忌法要(年回法要)でしょう。もちろん、葬儀も満中陰も仏法の集いですから法事です。ところで、この法事、亡き人をご縁に勤めることから、「亡き人のために」行うものと思われがちです。いわゆる追善供養です。すなわち、亡き人のために私たちが法事を行って善を積み、その功績を亡き人に振り向けて、少しでも良い世界に生まれてもらおうという考え方です。
しかし、浄土真宗の味わいでは、亡き人は阿弥陀仏の救いによってすでに浄土に生まれ、仏さまになっておられます。ということは、こちらから善を振り向ける必要はないのです。法事はあくまで、参拝者一人ひとりが「私のために」仏法を聞く仏教行事なのです。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P110)』をご覧ください。
→浄土真宗本願寺派の寺院をお探しの方は、【寺院・団体を探す】から、お住まいエリア内のお寺(別院・教務所)にお尋ねください。 - 法事は何回忌まで?
「法事は何回忌まで勤めたらいいのですか」と尋ねられることがあります。
こうした質問は、概して、年月が経って亡き人への思いが薄れ、法事を営む煩わしさや負担感が増してきた頃に出てくるようです。そして、その"区切り"が五十回忌だと思っている人が多いようです。
故人のためではなく、あくまで"私のため"の法事です。つまり、今こうして生かされている私のいのちの尊さを、亡き人を偲びつつ味わわせていただくのです。生前、ともに生活した故人であれば、その遺徳を偲び、また遠い先祖の方であっても、そうした方がたのおかげで私のいのちがあり、何よりも尊い仏法を伝えてくださったと喜ぶのです。
ですから、「五十回忌でおしまい」ではありません。故人を起点に考えるのではなく、私を起点に、生きている限り勤めて、仏縁を持ってください。仏事は継続することが大切なのです。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P122)』をご覧ください。
→浄土真宗本願寺派の寺院をお探しの方は、【寺院・団体を探す】から、お住まいエリア内のお寺(別院・教務所)にお尋ねください。 - お盆のお飾りは?
一部の風習では、精霊棚を作って、お膳を用意するところがあるようですが、浄土真宗ではそういったことはいたしません。精霊棚というのは、先祖の霊を迎えてもてなすため用意する棚で、位牌を並べ、その前に精進料理のお膳や迎え団子、その他盛りだくさんの果物、野菜を供えるものです。また、ナスとキュウリにおがらをさして、牛と馬に見立てます。これらは先祖の霊が乗るための乗物だそうです。
そもそもお盆とは、仏弟子の目連尊者が餓鬼道に堕ちた亡き母を救おうとして、その母に食物を与えるのですが救われず、お釈迦さまの導きで衆僧に供養して初めて救われたという故事から起こった行事です。すなわち、亡き母や特定の先祖に供物を捧げるというのではなく、自らが深く仏法に帰依して、限りなき仏さまのはたらきを仰いでいくということでしょう。
ですから、精霊棚を設けるのではなく、ご本尊の阿弥陀さまを心から仰ぎ、お供え等をしてください。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P136)』をご覧ください。 - 中陰法要とは?
死亡日から数えて七日目を初七日、次の七日目を二七日、以後三七日・・・・・・というように、七日ごとに勤める法要を中陰法要と言い、最後の七七日(四十九日)は満中陰(中陰が満る)として、特に丁重にお勤めする慣わしになっています。
世間では「四十九日が三ヵ月にわたるといけない」という迷信がはびこり、五七日(三十五日)に満中陰法要をすませてしまう方がおられます。なぜ「四十九日が三ヵ月にわたるといけないか」と言うと「始終苦(四十九)が身につく(三月)から」というのです。そういう語呂合わせを気にして中陰期間を切り上げるようでは確かな依りどころを得たとは言えません。
中陰法要は、亡き人への追善のためではなく、むしろ、遺族自身が阿弥陀さまのお心をいただきながら、悲しみから立ち直っていくための機縁となる法要です。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P84)』をご覧ください。 - 法事のお飾りは?
まず灯(ローソク)・香(お香)・華(花)のお供えですが、普段は三具足(ローソク立て、香炉、花瓶各一具)のところを、できれば五具足(ローソク立て一対、花瓶一対、香炉一具)にします。この場合、花瓶を前卓の一番外側に置き、その内側にローソク立て、そして中央に香炉を置きます。
ローソクの色は、三回忌までが白色、七回忌以降は朱色のもの(朱色の和ローソクが仏壇店などで販売されています)を用い、供花や供物の色も三回忌まではなるべく赤色を避けてお飾りするようです。
また、花瓶や香炉を置く前卓には"打敷"という布を敷いて、仏前を飾ります。浄土真宗では、三角状の打敷が一般的です。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P114)』をご覧ください。 - 彼岸とは?
お彼岸は、ご承知のように年に二回、春分と秋分の日(お中日)をはさんで、前後一週間ずつあります。
"彼岸"とは、迷いの世界を"此岸"というのに対して、さとりの世界を表す言葉で、お彼岸とか彼岸会という場合の"彼岸"は「到彼岸」の略、つまり「迷いの世界からさとりの世界へ到る道の実践」を意味します。
浄土真宗では、さとりに至るための修行はせず、また、日々のお念仏の味わいが重要なのですが、このお彼岸の期間を「さとりの世界(浄土)へ至らしめてくださる阿弥陀さまのお徳を讃え、そのお心を聴聞させていただく仏縁」として大切にしています。
"彼岸"は"あの世"とイコールではありません。「迷いの世界である"あの世"にいる故人を慰める」のではなく、「真実の世界である浄土に生まれた故人を偲びつつ、自分自身がその浄土へ到る道であるお念仏の教えに耳を傾ける」ご縁の期間であり、法要なのです。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P132)』をご覧ください。
葬儀
- 葬儀の意味
「生」に執らわれ、死の現実から目を逸らせがちな私たちに、(亡き人も含めて)一つのけじめとして死を受けいれさせ、一歩前に進む契機を与えるのが葬儀です。葬という字は、原野に屍を安置する形ですが、これは放置するのではなく、遺体の変わりゆくすがたを直視し、死を受け入れる行為を意味します。また、屍や死という字は、残骨を拝するかたちの象形文字です。すなわち、亡き人の死を受け入れ、今後は亡き人を敬うべき存在として崇めていくことを表すのが「葬」という言葉です。
したがって、葬儀とは、亡き人のいのちを死で終わらせることなく、普遍的な価値を持って関わり続ける存在と私たちが受け止めていく儀式と言えるでしょう。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P54)』をご覧ください。
→浄土真宗本願寺派の寺院をお探しの方は、【寺院・団体を探す】から、お住まいエリア内のお寺(別院・教務所)にお尋ねください。 - お通夜の意義
葬儀の前夜には、通夜のお勤めが行われます。通夜とは文字通り、近親者や親しい知人が"夜を通して"ご本尊前の遺体のそばに集い、亡き人を偲びつつ仏さまの救いを味わう法事です。ですから、お勤めが行われる時には参列者も僧侶(調声人)と一緒にお勤めしていただきたいものです。
通夜のことを、昔は夜伽とも言いました。一つの布団に入って、本心で語り合うのが夜伽です。亡き人が声なき声で語りかける人生最後のメッセージを心して聞き、送る方も一番伝えたいことを亡き人に語るためにあるのが夜伽であり、お通夜です。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P74)』をご覧ください。
→浄土真宗本願寺派の寺院をお探しの方は、【寺院・団体を探す】から、お住まいエリア内のお寺(別院・教務所)にお尋ねください。 - 浄土に往き生まれるとは?
「亡き人はどうなるか」ですが、亡き人は、阿弥陀さまの救いのはたらきによって浄土に生まれ、仏となられます。阿弥陀仏が阿弥陀仏たるゆえんは、どんな境遇の者であっても、誰とは問わず、必ず浄土に救いとって仏にならせることだからです。
亡き人の存在を「死」で終わらせるのではなく、永遠のいのちを持った存在として蘇らせるーその一大事業を成し遂げられたのが阿弥陀さまなのです。
「浄土に往き生まれる」と、「死」ではなく「生」で表現されることに注目してください。その観点から言うと、この世での出来事は「生前」の出来事というわけです。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P56)』をご覧ください。 - 葬儀の形態とは?
一口に葬儀と言っても、形態はさまざまです。大規模に営む社葬、団体葬から、近親者らごく少数で行う家族葬や密葬(後で本葬を営む前の近親者の葬儀を指します)までありますが、これらは亡き人や遺族の方がたの人間関係が大きく関わってきます。社会的に影響が大きい人なら、それだけ多くの方がたが参列しようと思いますし、高齢で亡くなれば、ともに人生を歩んだ友人や同僚たちも先立ち、縁ある人は家族だけということになるかもしれません。
しかし、大事なことは、亡き人の死を悼む人がいる限り、それらの人びとにも知らせ、ともに営んでいくのが、葬儀の望ましいすがただと言えましょう。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P58)』をご覧ください。
→浄土真宗本願寺派の寺院をお探しの方は、【寺院・団体を探す】から、お住まいエリア内のお寺(別院・教務所)にお尋ねください。 - 「天国」ではなく「浄土」
最近は、亡くなった方の行き先を「天国」と表現される方が非常に多くなりました。弔辞などでも「昇天された・・・・・・」とか「天国に召された・・・・・・」と述べられているのを聞くことがあります。キリスト教信者でもないのに、と首をかしげたくなりますが、この天国という言葉、どうも漠然と使われていて深い意味はないようです。しかし、やはり、浄土真宗の葬儀ではふさわしくありません。というより、浄土に生まれることこそが浄土真宗の教えの根幹であり、阿弥陀さまがすべての人びとを救いとるために用意してくださった究極の安住場所なのです。亡き人がどこにいかれるのか、その行き先をしっかりと見定めていく、そのためにお聴聞(※)していくことが肝要です。天国ではなく、浄土だということを、言葉だけでも知って、使っていただきたく思います。
※お聴聞:仏さまの話(法話)を聞くこと
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P78)』をご覧ください。
礼儀・作法
- 焼香の作法は?
浄土真宗本願寺派では、「お香はおしいただかない」で「回数は一回」です。
①尊前(ご本尊の前)の二、三歩手前で、軽く頭を下げる
②進み寄って、まず香盒の蓋を取ってその縁にかけ、お香を一回つまんで、そのまま香炉に入れる。この場合、お香は額におしいただかない。また、お香をつまむ前に合掌礼拝する必要はない。
③香盒の蓋をして、合掌礼拝する。
④礼拝が終われば、二、三歩後退して軽く頭を下げる。
以上が基本です。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P150)』をご覧ください。 - 金封の表書き
葬儀や法事など喪主(施主)が僧侶に差し出す金封には「御布施」と書かれることが多いようです。この「御布施」は、お寺の御本尊・阿弥陀さまにお供えするためのものです。僧侶に渡す金封で、「御布施」以外の、「御礼」「御経料」「回向料」などは趣旨から言って、ふさわしくありません。
次に、他家の葬儀や法事に参列した場合です。仏事関係の本には「御霊前とする」と書いてあったり、「御霊前」の文字を印刷した金封もありますが、故人の霊に捧げるのではなく、仏さまに捧げるので、書くなら「御仏前」です。ほかに、「御供」「御香典」「御香資」などが使われています。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P158)』をご覧ください。 - 合掌の作法は?
念珠の持ち方と合掌礼拝の作法を述べますとー。
①念珠を持つ時は、常に房を下にたらし、左手で持つようにします。合掌の時は両手にかけ、親指で軽く上からおさえます。珠をこすり合わせて音を出したり、てのひらの中でにぎりしめたりはしません。
②合掌は、胸の前で両手を合わせ、のばした指先が上体から四十五度の方向にくるようにします。そして念仏を称えます。最近は、声に出して念仏を称える方が少なくなってきたようです。"黙念"という作法はありません。合掌する時は必ず声に出してお念仏申してください。
③礼拝は、念珠をかけて合掌した姿勢で上体を四十五度前に傾けて、おもむろに元の姿勢に戻します。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P146)』をご覧ください。 - 法名とは
そもそも、法名というのは"仏法に帰依した人の名前"(キリスト教のクリスチャン・ネームのようなもの)で、主に本願寺で行われる帰敬式(おかみそり)を受けた人に対して、本願寺住職(ご門主)から授与されるものなのです。つまり、「仏教徒としての自覚を持って生きる」証しの名前であり、生きている間に授かるべき性質のものです。
浄土真宗では"戒名"という言い方はしません。なぜならば、戒名は、自力修行をめざし受戒した人に対して授けられる名前であり、自力修行をしない浄土真宗にはそぐわないからです。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P162)』をご覧ください。 - 念珠とは?
仏さまに礼拝する時に欠かせないのが念珠です。珠数(あるいは数珠)とも言いますが、浄土真宗では"念珠"という言い方が多く用いられています。
浄土真宗では、念珠を、煩悩を滅する道具として用いるのではなく、また、読経や念仏の回数をかぞえるために使うものでもありません。ただ、阿弥陀さまに合掌礼拝する時の礼儀として用いているのです。
また、念珠は大切な法具ですから、お経の本(聖典)と同様、畳や床に直接置いたり、投げたりはしないようにしてください。
→さらに詳しくは『新・仏事のイロハ(P146)』をご覧ください。